【20世紀の遺作「電卓」】

  1. 電卓。本当は電子計算機が、正式名称なのだろうか?まぁ、いいやっ。
  • 今では、会社に当たり前に存在する。100均でも売っており、何の気無しに使っているが、昔々は相当な高級品。
  • f:id:kamimura0219:20160617182316p:plain
  1. 結果的にコモディティー化を招いたのは事実だか、見習うべき事も数多い。
  • 第一に、「入力と出力」が、単一の機械で出来ている事だろう。
  1. 数値と演算記号を与えれば、計算機はその結果を返してくれる。
  2. 一部の関数電卓を除けば、数値を入力して、数値で返してくる。
  • 次に、圧倒的な省エネ性能。
  1. 今では、蛍光灯の下でも操作が出来る小さなソーラーパネルでも駆動してくれる。
  • 黎明期はリレーを使って回路を組み、部品点数千数百点と言う数多くのパーツ数で構成されていた。
  1. 参加各社はそれぞれがしのぎを削り、試行錯誤と技術的ブレイクスルーを繰り返して、遍く人々に行き渡る状態になった。これらのブレイクスルーは、後のLSI・液晶など新たな技術要素となっている。
  2. f:id:kamimura0219:20160617182755j:plain
  3. そして、電卓の発展が、本来軍事・宇宙産業の需要や高性能コンピュータ向けの需要が中心だったICに、莫大な民需をもたらし、日本の半導体産業を発展させ、技術を確立させた。
  1. しかし、電卓の事を考えると、複雑な心情を抱かずには入られない。
  1. 確かに、電卓で世界を席巻し、MADE IN JAPANの代名詞となった。
  • 苛烈を極めた価格競争と技術開発の末、諸外国は早々に撤退した。
  1. しかし、彼らは強かだった。
  2. f:id:kamimura0219:20160617183513j:plain
  • 電卓単体から技術の構成要素を分解し、その部品の性能を徹底的に性能と精度を上げて行く。
  • また、市場を広げるべく、汎用性を持たせた。
  1. 結果的にICを高性能化させ、処理性能を上げたLSIの開発に尽力し、それらが世界を席巻する。
  • PCは、Windowsに取って代わられ、CPUはIntelが入ってるのが普通である。
  1. 一方の日本の電機メーカーは、価格低下に伴う生産拠点の海外移転、産業の空洞化、理系進学率の低下、国内の少子高齢化で市場の海外進出。
  2. 上げればキリがない程の憂慮すべき問題点を解決できないまま、此処まで来てしまった様に思える。
  • 物作りの現場では、integral(統合された製品)とmodule(規格品)が良く言われる。
  1. 日本人は、世界進出を謳いながらも、module化に躊躇していたのか?はたまた、このintegralに全てを賭けていたのか?
  • 日本の産業で辛うじて活躍しているであろう自動車産業も、電気自動車と言うmodule化に遭遇した時、太刀打ちできるのか?
  1. 電卓は、数字と四則演算を入力すれば、その結果が数字で帰ってくる。昔はそれでよかっただろう。
  • しかし今は、グラフや平均値、偏差と誤差が知りたいと、人々はPCに向かってExcelを入力する。
  1. とはいえ、PCには欠点がある。まず、入力と出力が分離をしているではないか。演算結果を片手で持てない。
  • 無駄な表示がやたらと多すぎないかっ!はたまた、関数、よくわかんねよっ!
  1. 言いたい事は本当に山ほど有るが、悲しいかな、それらが時代のニーズである事は、間違いはない。

統計学の「再発明」 その3

<熊本地震で被害に遭われた皆様に、心からお見舞い申し上げます>

 

前回の記事では、組織における情報を深く考察を重ねてみた。

今回は、前回提示した問題群へのアプローチについて、考えてみたい。

そのため、いくつかの例示を試みたい。

誠に恐縮ではあるが、統計学からは一旦は離れてしまうが、しばらくお付き合いいただきたい。

 

発明的問題解決「TRIZ

まずは、「TRIZ」をご存知であろうか?簡単ではあるが、触れておきたい。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/TRIZ

http://www.engineer.or.jp/c_topics/001/attached/attach_1029_1.pdf

 

「発明的問題解決理論」と言われており、一時期、話題に挙がっていた。

この理論の提案者であるアルトシュトラーは、発明の中にアイディアを得る手がかりとし、

出願特許を分析し、問題解決への科学的・体型的アポローチを模索する。

この理論の中で「問題解決の5つのレベル」があると記述されている。

 

1.最適化のみ

2.技術的矛盾が解決

3.システムの本質的解決

4.新しい技術システム開発

5.新しい科学的原理や法則の発見

 

この中で、上記の3.以降を「発明的問題解決」と定義している。

問題の解決は、少数の「発明原理」と戦略(「究極の理想解」を用いた戦略)によって革新が生まれると提唱。

現場において基本的なものと仮定している「対立やトレードオフ」を探し出して「破壊」する事だ、と述べている。

ここで、通常よく行われているであろうアプローチと、TRIZが提唱する考え方を比較してみたい。

 

通常のアプローチ

・「現行のシステム」を、出発点としている。

・持続的な改善が、常時行われている。

・収穫逓減(ていげん)の法則により、時間的経過とともに、

大きな努力を行っても、より小さなレベルの改善しか達成出来ない。

 

「究極の理想解」を用いた戦略

・「究極の理想解」を、出発点としている。

・一連の解決策を後退させながら、開発を進める。

・実現可能な解決策まで繰り返す。

 

確かに、抜本的に見直しによってシステムの性能のレベルアップや組織の生産性の向上といった事は考えられる。

しかし、それらが本当の意味での根本的な解決だったのか?と問われると内部の人間であっても、時として返答に窮する。

 

特に組織としては、システムやルールの高度化・洗練化に伴い、従業員には教育を受けて、新たなルールや自由度の元、運用に頭を悩まさなければならない。また、最前線の管理者の脳裏には、「現行のシステムとの差異」によって手順・情報・イメージなどをメンバーと共に再確認し、最適化する作業も行わなければならない。

●管理者の「頭痛のタネ」

もっと端的に言えば、管理者にとって従業員に「何かをしてほしい」という指示を出すことより、

『何をしてはいけないのか』を伝える事が困難を伴う。

 

http://kamimura0219.hatenablog.com/entry/2016/02/07/231234

 

(手前味噌ですが)

 

ここでも触れているが、作業に従事するメンバーの習慣化された手順や思い込みに対して、

頭ごなしに「ダメだ!」と伝えても、従業員自身に困惑と焦りが残る。

作業をするメンバーには作業をしない事に伴う「情報ロス」と、

新たな「情報」や手順、イメージへの対応が伴うだろう。

 

また、そもそも「現行システム」での対応しか残されていない管理者にとっては、

「収穫逓減の法則が‥‥。」「経験が‥‥。」と、嘆く事もままならないまま、

前述の通り、目の前の業務の最適化だけが、目下の目標という悲しい事態も想定される。

 

なんとまあ、自分の身に詰まされる話が続いている。

もう少しのお付き合いを、ご容赦いただきたい。

何を持って、評価するのか??

トヨタの「自工程完結」という書籍が出版され、話題となっている。

 

 

頑張っているのに結果が出ない。そんな人を出さないためにトヨタ全社で進めている「自工程完結」の考え方。意思決定を迅速にするために、誰かワンマンリーダーが来て、さっと話を決めて動けばいいかというと、そうではないであろう。

いろいろな人の知恵を集めた上で、素早く意思決定をする。そんな考えの元、

「マニュアルをしっかり考えて整備する」ことが

自工程完結だと要約している。

 

また、こんな指摘もしている。

 

上司と部下のすれ違いの理由としては、

次の6つがあると著者は指摘しています。

 

1. なんのために資料をまとめるのか、「目的」の共有がない。

2. どんな資料をまとめるのか、「アウトプットイメージ」を共有していない。

3. どうやって資料をつくるのか、具体的な「手順」が共有できていない。

4. それぞれの仕事で、どういう状態であれば大丈夫なのかが共有されていない。

5. 仕事に必要な情報をもれなく把握できていない。

6. 手順やルールには、なぜそうするのか「ワケ」があるのに、勝手に判断してしまう。

 

http://www.lifehacker.jp/2015/12/151202book_to_read.html

 

「目的」「イメージ」「手順」「状態」「情報」「ワケ」

 

作業者が、この六つのどれかが逸脱と判断した時に、

上司である管理者は、残念な顔をしたくなる。

特に、管理者が苦労するであろう事は、作業者をする方々から

その「目的」と「イメージ」と「ワケ(理由)」を求められた時であろう。

「アップグレード」するような内容は、景気付けて励ましていけば問題はないだろう。

しかし真逆の「ダウングレード」するような内容はどうだろうか?

 

例えば、今までお咎めもなく行えていた業務慣行。

ある日突然「禁止です!」となった時。

それこそ、先述した目的観・新しい業務慣行のイメージ・また明文化されていないその「理由」を、

管理者から作業者に伝えなくてはならない。

どうやら、ここで話が、以前に示した「概念図」に帰着するようだ。

正直、これは難題のようである。(頭痛がっ!)

 

さて、いつものようにまとめてみよう。

 

「発明的問題解決理論」と言われたTRIZ。究極解によるアプローチを示してくれた。

しかし、現実は、この今、目の前の業務の最適化に翻弄される。

管理者が骨を折るのは、作業者に『何をしてはいけないのか』を伝える事や、「ダウングレード」するような内容であり、今までの業務慣行の手直しだけにとどまらず、管理者と作業者が目的観・業務フローのイメージ・なぜそうなのかという理由も提示し、共有せねばならない。

 

そうなると、次回は「組織におけるコミュニケーション」というアプローチから考察してみたい。

(とはいえ、完全にノープランであるが。)

統計学の「再発明」 その2

<熊本地震で被害に遭われた皆様に、心からお見舞い申し上げます>

前回は「統計学」を起点とし、会社組織などの情報の重要性と困難さを考察してみた。
今回は、「組織における情報」を考えてみたい。

 

まず、佐藤優さんが雑誌で書かれた記事に、「組織における情報」についての興味深い記事があったので、紹介をしたい。

 

一言で「情報」といっても、intelligence(インテリジェンス)と
information(インフォメーション)とに、大別されると指摘している。

information(インフォメーション)
⇒・intelligenceを作成する材料(素材)

intelligence(インテリジェンス)
⇒・informationから生成されたもの
 ・組織においては、比較・弁別・統合という思考作用を加味して処理した生成物 

しかし、組織においては「先入観」が、これらの情報を瑕疵させている事に言及され、

「情報分析の父」と呼ばれたシャーマン・ケイン氏の著作から次の事を指摘している。

「先入観と合致しない知識を伝達しても仕方がないと観念した時点で、自らを頼るほかなくなってしまう。その時、理性と科学的手法は、背を向けていることを自覚すべき」と。

また、このようにも、記している。

「(実際は)定時に情報会議を開催し、生起している軍事動向等に関する動態報告を行うのが常である。そのため、要員は一刻たりとも気を抜けず、動態情報を収集し、過去データを照合し、定時にプロダクトを作成して情報会議に臨むことになる。
こうした要員にとって相手国の歴史、文化および政治体制といった分野を勉強する余裕はない」と。 

 これって、自分達にも、良くある話じゃね?と。まず、「先入観」そのものが、なかなか手強いものである。前回の記事のごとく、専門家が正しいとは限らない。反省と心がけという思いをのせて記せば、他者がそう思っていると知覚しながら、自己の「先入観」と向き合わなければならない。

●「思考の積み重ね」が、新しい扉を開くというのか?

別の観点から考えてみよう。

現在の情報社会は、調べたい事が即座に見つかる「検索社会」と言っても過言ではない。以前であれば、組織にいる事で得られた情報が、個人でも簡単に得られる。
また、個人からの発信もBlogやSNSなどによって手軽にできる、本当に有難い時代である。一方で、個人が処理出来ないほどの膨大な情報の波に翻弄されるというリスクも持ち合わせている。 

一番恐れるべきは、情報に流され、思考停止する事である。

しかし、『学び、考え続ける』というのは、集中力を保ち続ける「根気強さ」と時間的・金銭的・精神的な「労力」と、そして、わずかな光を頼りにした「終わりの見えない感覚」との、鍔迫り合いである。

 

だからこそ、まずは、統計科学の考え方を理解し、一貫性のある対応が構築できる「人材の開発」が急務と考えている。

 さて、一番最初の話に戻してみたい。

 

そう、統計学の『再発明』」である。

 

統計学は業界それぞれに「最適化」が施されていると「統計学の過去現在未来」の記述を読むと拝する事ができる。自分がいた「工学」の世界でも、統計学的管理手法という名の元、独自の進化を遂げ先鋭化している。当然、表記や統計学そのものや分野毎の事象への見識不足は努力で解決する必要はある。

しかし、技法が先鋭化する事で、他分野からの思考・アイディアの転用が上手くいってないのが現実ではなかろうか?前回の記事で論じた、専門家の存在によって見解と対立する情報を退けるといった弊害がある。また、業務慣行は変えられることなく、専門家が推奨したことのみが実行される大きな壁が存在する。

結果として、統計学の間違いで表された統計学における分布や標準偏差についての基礎知識やまたは、(試験・モデル構築)の設計・検証に対する教育や運用が上手く出来ているとは考え難く、小生も含めて考えなくてはならない。

ここで、一旦話をまとめてみよう。

佐藤優氏の「情報」には、intelligence(インテリジェンス)と information(インフォメーション)とに大別されると指摘。その中で、現場での経験や「先入観」の払拭をしない限り、情報そのものが瑕疵があると扱われる。現場の要員には、周辺の知識を学ぶ機会を与えられる状況になく、報告項目の範囲から逸れると回答できなくなる。学び考え続けるには、多くの「労力・集中力」または、それらの困難に立ち向かう「動機付け」を求めている。「統計学の再発明」においては、前回記事の論点の一つ「専門家・組織そのものの壁」が、統計学の基礎的知識である標準偏差や(試験・モデル構築)の設計・検証に対する教育や運用が上手く出来ているとは考え難くと論じさせて頂いた。

 

次回は、これらの諸問題点にどうアプローチ出来るのか?を考察してみたい。

統計学の「再発明」 その1

<熊本地震で被害に遭われた皆様に、心からお見舞い申し上げます>

 

前回の記事では、多くの方々に「いいね!」を頂きました。本当に、ありがとうございます。

これからも、遅筆でありますが、お付き合いの程、よろしくお願いします。

 

さて、前回の「概念図」の意図する処を、簡単ではありますが、総括をしてみたい。

(縦軸については)

上側が「群」に関係する項目に対して、

下側は「個」に関連する項目が集まっている。

に対して、

(横軸については)

右側が「文系的」、左側が「理系的」と考えられる。

 

本来であれば、概念図の対立軸を各項目毎に考察してみたい処である。

生意気に「知能」という概念の中でも高難度な事を考えるのは、根気のいる作業である。

もう少し、時間と労力をかけて考察してみたい。

 

そもそもは、「誤差」と「言語」の関係を考えていた。

統計学をもう一度見直す事で、磨きをかけていきたい。

 

そう考える中、こんな論述を見つけたので、ご紹介したい。

http://www.ism.ac.jp/~eguchi/scratch_statpnf.html

統計学の現在過去未来 --方法論の視点から--より

 

統計学はその方法論の適用性の高さ,優れた汎用性,客観的判断の提供,その普遍的な理論構築において「科学」の諸分野の中でも非常に優れた一分野である.』

 

「我が意を得たり」という文章であり、この事を読者の皆さまに共有したいという思いを想起させてくれる。前述の文章を読んでいくと、統計学の歴史(統計学史)を紐解きながら、人々の関心がデータそのものに移ってしまった事やその周辺で起こった出来事についても描かれており、是非、心して拝読していきたい。

 

話が逸れてしまったが、ここで、自分が導き出したい事をここに認めさせて頂きたい。

 

私が、ここで導き出したいことは、統計学の『再発明』」である、と。

 

「発明」と名乗るならば、それ「相応の何か」を見せなければならない。

今回は、その考えの一端を、お伝えできればと考えております。

都合、複数回に渡る連載となります。予め、ご了承ください。

 統計学」は、どう理解されているのか?

寺田寅彦先生の著作「地震雑感」の中に、こんな記述がある。 

ただ自然現象中には決定的統計的と二種類の区別がある事に注意を促したい。

(省略)

前者は源因の微分的変化に対して結果の変化がまた微分的である場合に当り、

後者は源因の微分的差違が結果に有限の差を生ずる場合である。

この記述の前では、「災害予知」について述べられている。

この二つの違いの区別が、「本質的なもの」と彼は述べている。

 

ここで「統計的」というのを、自分なりに定義してみたい。

 

(定義として)

⇒『説明すべき事象に対する、ある一定の母数の群の、分布の偏差とその誤差』

 

(解説)

○<説明すべき>事象

「説明」が出来るとは、観測可能である必要がある。

○<ある一定の>母数の群

「一定」という事は、ある程度の「」を有する。

○<事象に対する>分布の偏差

群を構成する「個」の挙動が、結果に影響してくる。

○<事象の起こるべき>その誤差

(統計モデルの)誤差の程度が信頼性につながるが、それ自体が「決定的」とはならない

 

(総括)

観測可能で、ある程度の量を有する母数群を構成する「個」自体の挙動が、結果に影響する。統計モデルの誤差の程度がそのシステム(事象そのもの)の信頼性につながるが、それ自体が「決定的」な変化につながるわけではない。

 

前述の「源因の微分的差違が、結果に有限の差を生ずる」とある。

これは、事象やシステムそのものの差異に照準が当てられたものと拝することができそうだ。

 

この考え方でいくと「決定的」というのは、こう考えられる。

 

(定義)

⇒『特定される「個」の挙動、特性、思考に対する「原因と結果」の組み合わせ』

 

(解説)

(特定される)「個」

特定のみ」で良く、観測や計測は必要としない

(「個」の)挙動、特性、思考

先の解説と同様、「個」の特定が対象であり、観測不要である。

それらは、特性に対する定性的、定量的、見える、見えないは不問となる。

(「個」の挙動)に対する「原因と結果」

因果律であり、統計的のような「個」の挙動が、「決定」自体に影響しない。

(個と「決定」)の組み合わせ

個体毎に、決定の適用の可否、影響度などは異なる。

しかし、適用された事実に基づき、その影響が個の挙動に及ぼす可能性はある

 

(総括)

ある「決定」に対する影響は「個」に対して局所的に影響を及ぼす。

しかしその影響は「因果律」であり、一方通行的な挙動となる。

 

前述の「源因の微分的変化に対して結果の変化がまた微分的である」は、

「個」への影響は、ノード図のような経路的な進路を示す。

 

書きながら思い出したのが、論理学における「演繹法」と「帰納法」の関係に近いかもしれない。

 

演繹法

⇒「ルール(大前提)から結論を導き出す思考の経路」と定義。

帰納法

⇒多くの観察事項(事実)から、類似点をまとめあげ、結論を引き出す」と。

 

●情報と組織

現在の会社組織に当てはめて考えてみると、(トップダウン)と(ボトムアップ)の関係に近いだろうか。現在の会社組織も、下部組織から上層部へのエスカレーションやそれらのフィードバックが肝要となってくる。それこそが、組織全体が円滑に進むか?が決まってくる事をよく思う。

統計学的に考察すれば、「偏差」や「誤差」そのものに機能や信号を与えて、

組織に対して働きかける。

 

ここで、寺田寅彦先生の著作「天災と国防」には、こんな記述がある。

 

もう一つ文明の進歩のために生じた対自然関係の著しい変化がある。

それは人間の団体、なかんずくいわゆる国家あるいは国民と称するものの有機的結合が進化し、

その内部機構の分化が著しく進展して来たために、

その有機系のある一部の損害が系全体に対して

はなはだしく有害な影響を及ぼす可能性が多くなり、

時には一小部分の傷害が全系統に致命的となりうる恐れがあるようになったということである。

 

特に、現在の組織は有機的かつ体系的な重層的な構造を有している。

そのため、情報の流通は、重要度を増していると感じずにはいられない。

 

しかい、ある雑誌の論説に、こんな記載があったので紹介したい。

 

「経験とは多面的構造を有し、現場で過ごした時間や、顧客に対応したり特定の人々と働いた時間を含めて、多種の経験が問題の細部に至るまで理解することや解決法を導き出すのに役に立ち、効率や効果を高める。

 

経験自体は必要と考えているが、就中、専門家は一つの職務に長く携わってきたことがもたらす弊害があるということを見落とす可能性がある。それは、変化に対する抵抗も増大させ、自分の見解と対立する情報を退ける傾向を強めることもある。」

 

また、こうも書いてあった。

 

「標準的な業務慣行は、めったに変えられることなく、専門家が推奨したことのみが実行に移される」と

 

(以上)

Diamond Harvard Business Review. May 2016.『なぜ「学習する組織」に変われないのか』より)

 

こうしてみると、組織における情報の取り扱いというものは、なかなか難しい。

しかし、これが鍵になりそうとも考えられる。そこで、話を一旦おさらいしておこう。

 

統計学の「再発明」』というお題目の元、「地震雑感」の記載から「統計的」「決定的」という文言に対して、自分なりの解釈と考察を述べさせていただきました。

それらが、論理学の演繹的・帰納的思考に通ずるものがあり、それらは会社組織にも通ずると。

意思決定・思考の原点ともいえる、情報の流通の重要性と、専門家が陥りやすい思考のデバイスなど、その扱いの難しさが鍵となりそう。と

 

次回は、「組織における情報」を深く考察してみたい。

「誤差と言語について」考えてみたくなったら、意外な結果になったので、記事にしてみた。

寺田寅彦先生が、統計の一番の利点は

誤差を考えなくていい事だと。

統計的方法の長所は、初めから偶然を認容してかかる点にある。

いろいろな「間違い」や「杜撰」でさえも、

最後の結果の桁数には影響しないというところにある。

 

そして、関係要素の数が多くて、

それら相互の交渉が複雑であればあるほど、

かえってこの方法の妥当性がよくなるという点である。

 

 寺田寅彦

“比較言語学における統計的研究法の可能性について”

そして、

生涯に渡って研究されたのが、言語についてであった事に、

尊敬とその先見の明に感嘆しつつ、

 

最近のどうでもいい報道に、不機嫌を示しながら、書いて見たいと思う。

 

とはいえ、残念な嗜好をした思考回路を有する小生だけの論説は、

チラシの裏側にでも書いておけ!と厳しいお咎めを受けるのがオチとなる。

 

今回、scanamindを使った分析を、一緒に見て頂ければ、幸いである。

 

本題に入る。

 

誤差は、測定をして定める許容値を逸脱する者と解する。

言語は、社会や行動そして思考を司る、

コミュニケーションの総体と考えられる。

 

人々は、

 

知識や知恵と言った思念体である。

と、着手してみる。

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事象に縁した者は、直接観察するだけでなく、周囲の意見も参考にして考える。

その人の見た目、言動、仕草、態度等々。

「人は見た目が9割」と言う本もある位だから、その影響は大きいのだろう。

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それらを総合的に確認し、善悪、正邪、大小、損得などを分類と比較をしている。

世の事象全てが、これらの判断基準に照らされて考えられると、

それらの境界線が存在する事になるだろう。

 

iPhoneが存在しない前に、iPhoneと言う名前が存在しなかった様に、

事象を認識しなくては、名前や思索などは存在出来ないだろう。

 

名前や思索を有する存在は、それぞれに性質を有し、挙動と環境への影響が出てくる。

 

某コメンテーターのあの声に騙されたのは何とも言えないが、

彼が15年以上もラジオで、大物ゲスト相手に対談出来ていた事は、

なかなかできる者ではない。

 

さて、言語について考えると、

 

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人は行動によって、何かしらの価値を有すると考えられる。

行動を決めるのは、知識を介した、言語に依存した、

コミュニケーションが主となる。

 

知識は、前述のコミュニケーション、または、総合的判断だけではない。

ルールや制度を厳守しようとする理性的な処理や、

数理的な処理、分析や論理的推考など細部に渡る思考処理を担っている。

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総合的判断は、コミュニケーションの一端を担い、それらは感情を伴う。

 

総合的に合理的な判断を、人間は出来るかと考えたいが、やはり感情の支配は大きい。

 

以前テレビで、日本語は英語と比較して分析的だと論じられていた。

学者曰く、英語は知覚した、痛さも熱さも冷たさも

“ouch!!”と一言で片付けるから、そうなのだと。

 

確かに、日本語では、「痛いっ!」「熱いっ!」「冷たっ!」と

事象の性質と知覚が混在している。

 

だからと言って、日本語が英語が分析的なのかと言えば、異を唱えたくなる。

 

英語が知覚のみを発し、その後に事象の性質を検証していると

考えてみると、別の観点が考えられる。

 

知覚と事象の検証を別にする事により、

事象への対処」に修正が効くかも知れない。

外国人のリアクションが極端に大きく、

その割に中身が無い様に思えるのは、

彼らのご先祖様が、陸上に境界線があると言う、

緊張感の高い世界で考え出した、

言葉の構造だったかも知れない。

(もちろん、よく言われる事象と観察を

立て分ける思想なども影響していると思える)

 

日本語の知覚と同時に、事象を表現するやり方は、

前述の「事象への修正」が難しいのでは?と考えられる。

 

最近の報道で不機嫌になるのは、

「例のブログ」を声高に叫んだ

国会議員の話である。

ルール違反でありながら、

メディアは判官贔屓の様な取り上げ方で、

それが世論の受けが良い事だろう。

 

確かに、ブログと言う匿名性の高い世界での記述が、

国会と言う透明性を担保しなくてはならない環境で、

取り上げられるのは、んんっ、まぁ、黙認しましょうか。

 

寧ろ、憤るべきは、男女機会均等法が施行されてから、

30年が経ち、その間に何度もこれにまつわる政策提言が

何度となく為され、改善と改良は、なされているはずだ。

 

それなのに、

 

今回の様な感情剥き出しの内容で、国会が揺れている(様な心象)を

与えようとしているのが、承服しかねるのだ。

 

メディア、世論、有権者、そして国会議員とそれぞれが

勝手にルールを逸脱して、主張と絶叫を繰り広げている。

カッコいい話では無い。

それらを調査し、提言し続けて来た方からすれば、

噴飯ものと言わざるを得ないだろう。

 

そして、前述の日本語の難しい所に繋がってくるが、

一度決めた物が、なかなか修正されにくい、若しくは、

心象が変わりにくいと言う特性が、悪い方向に出やすく

なるのでは?と推測する。

 

さて、ここ迄は言語について、思いつくまま書き認めてみた。

今度は、誤差について考察してみる。

 

誤差は、「量」である。

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また、技術の世界を想定すると、

精度と誤差は、表裏一体の関係と考えられる。

より良い精度を求めれば、より誤差は縮小する方向になる。

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経営、医療、数理、技術等、「改善や改良をする」

との要求に対し、取り得る可能性は、次の三つと考えられる。

 

一、その事象の品質そのものを上げる

一、その事象の誤差を極力減らす

一、その事象以外の分野に挑戦する

 

もし、科学的根拠を!とお求めになるならば、

インプットに対するアウトプットへの満足度を考え、

それでも満足行かないならば、

他のやり方を見つけるのが現実的だろう。

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その議論をする上で、数字というのは厳しいかも知れないが、

厳格に結果を示す事になる。

 

前述の「見た目が9割」で提示されたこの割合にどんな根拠があるのか、

正直存じない。

しかし、数字の大小、配列、割合、指標は、小市民な私を含めて、

人々は翻弄され、時にそれらを利用し、社会は回り出している。

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総合的判断、

(定性的で類型的に分類する全体的な判断と定義)も、

分析的思考

(境界を定めて、断片的に、その実体に

影響されない観察から得られる数値や状態から、

判断する事をそれと定義)が

社会生活の中で求められる。

人々は、それらを知識を介して、善悪、正邪、優劣、明暗と判断されるだろう。

 

やっとここまで、書き連ねてキャストは揃った様だ。

さぁ、ここからが本番です。もう少し、お付き合いの程を。

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総合的判断は、ルールやコミュニケーションが

存在する環境が大きく影響される。

当体だけでなく、その周辺の有象無象にも影響があり、

諸行無常と言った、一定は存在しないとなる。

 

分析的思考は、客観視が基本であり、

構成要素を取り出し、測定し分析する。

測定精度が正確である事は大切だか、

誤差を生じさせない方法論も議論するべきだろう。

そして、視点は固定され、大きな変化は誤差と扱われるだろう。

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この二つの思考や判断は、

知識を中心とした(脳内)の処理であり、

時に補完をし、相対し、連携し、対立しと、

その瞬間瞬間で、関係性を変えてくる。

総論賛成、各意反対は当然とし、時に正論で有っても、

受け入れられなかったり、

または、切り文で判断されたり、

真逆の結果となったりと、様々である。

 

思考や判断の処理は、脳内の処理では影響を与えないが、

環境に行動や言語を用いてコミュニケートすると、

その脳内の処理に影響を与える、

いわばフィードバックの構造が存在する。

仏教の考えに、人の心というのは、

縁によってコロコロ変わっていき、

それは、一日で6万回変わると説かれている。

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実は、分析し思考する事は、

本当にエネルギーと時間的コストのかかる行為とも言える。

それらを人々によって構成される(人間)社会は、

最適なルールや定石を守る事で、

ある種の心地良さを生み出してくる。

 

これを「文化」若しくは「(社会)の土壌」と名付けておこう。

 

ところで、ゲームの魅力って何だろうか?

ある方がゲームの核心とは、勝ち負けがどうとかではなく、

インタラクションの積み重ねそのものだ、と述べていた。

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人の生活には、何で、挨拶しなきゃいけないの?とか、

何で、エスカレーターはどちらかに寄らなくてはいけないの?など、

ルールが存在し、その理由も存在する。

挨拶は、「私は、怪しいものでは有りません。」と言う

自分からの意思表示であり、

後者はその方が効率が良いからと言うのを、

長い時間培った経験が証明している。

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そう考えると、ゲームのルールや、

プログラムのアルゴリズムや統計の検定法は、

「知識」と言う対象点に立っている存在かも知れない。

受動的にルールを守るのか、能動的にルールに汲みするのか、

この立ち位置の違いは分かりにくいが、大きな違いになる。

 

今回、誤差と言語と言う、性質の異なる二つを思索する中で、

知識を中心に前述の二つはもちろん、それ以外の事象(思考活動)の

立ち位置が見えてきた。

 

最近話題のAI人工知能)や、ディープラーニングなどが、

ニュースでも取り上げられる事も多くなり、

AlphaGoの活躍や、小説を書くAIの活躍、

はたまた、将来人間の仕事がAIに取って変わると言った

煽り気味な報道を散見する。

 

今回、考察してみるまでは、漠然とした不安が心証として有ったが、

知識を客観視し、自分なりの全体観が見えてきた。

 

「好奇心」こそが、真の経済を救うのか?

 

AIも、知識と言う範疇で考えれば、部分的な機能を特化し

先鋭化させた存在である。

その部分のみに焦点を当てれば、人間は、機械には到底敵わないだろう。

 

しかし、全体的判断は、まだまだ人間の勝利で有ろう。

 

現在は、産業革命以降の分業化を端とする、

事象の細分化、クラスタ化が組織の肥大化を齎らし、

多国籍でグローバルな、分業体制が世のスタンダードと

謳われる様になった。

 

現在の大学教育も、社会の分業化の影響で、

各分野で専門化と先鋭化を招き、

世間で言う、文系、理系の区分が出来てきた。

 

しかし、それらが結果として、コモディティ化も招いている。

 

スマートさや合理性を求め続けた結果が、

没個性的な物、情報過多、人(の思考)、通貨の価値、

などなど、疑問となる事は多くなる。

 

世界のTOYOTAが、人工知能事業化に本腰を入れたのも、

ビックリな話で有ったが、学際的な取り組みだけでなく、

リベラルアーツ的な尺度に評価される時代が来るのでは?と

予見せざるを得ない。

 

さて、ここまで知識を中心とした、人間の思考、判断、推論、

行動やコミュニケーションの関係性を見る事が出来ました。

 

特に、幾つかの対立軸が確認出来た。

列挙して見ると、以下の通りで有ろう。

  1. 総合的判断」「(局所的)検証」
  2. 「言語」「数値」
  3. 「ルール」「誤差」
  4. 「文化」「決め事」
  5. 「(感情的な)コミュニケーション活動」「(環境から要求される)合理的行動、若しくは、思考」
  6. 「感情的」「合理的」
  7. 「知覚」「事象の検証」

これらを基軸に、知識に影響を与えるであろう、情報について

またの機会に考えてみたい。それでは。

二月、革命!

前回の記事で、多くの方から「いいね!」を頂きました。ありがとうございます。

 

その前に、こちらのデータサイエンティストのブログも確認して頂きたい。

tjo.hatenablog.com

非常に明快に手法やTips.などが展開されており、読者としてありがたい。

 

しかし、読みながら、頭の中では、、、

 

『たが、しかし。だが、しかし。』

 

と、言葉にできない疑問と、問題の奥底が見えない不安が襲い掛かる。

 

さて、本題に戻るが、今回は、前回の記事で引用した「統計学の間違い」の中から内容を取り上げ、考察をしてみたい。

この文章自体が、医療向けの用語や例示が数多く、取っ付きにくい心証をお持ちの方もいらっしゃるかと思います。可能な限り、利用出来る形にしようかと考えております。

 

今回は、本文のエラー12で上げている「正常」または「異常」の定義について考察してみる

本文では、検査結果の重要性は、「正常」または「異常」の定義によって左右すると。また、「正常」の定義について6つあると述べている。つまり、診断、治療、リスク因子、統計学、パーセンタイル、社会という見地から見た正常の定義があり、それぞれのフェーズでの定義は異なると述べられている。

 

ある病気の健診を例に考えてみる。

 

健康診断で「病気の疑いあり」と結果を貰ったとしても、即、その病気であると判断するのは、早とちりと言わざるを得ない。

病気が疑わしいと判断されても、その中で本当に存在するのは、実際は3パーセント位とか。

これが「疾患である可能性が高い」と言う、診断的見地と考えられる。

 

「疑いあり」となれば、当然ながら精密検査を経なくてはならない。

専門医の視診から始まり、問診、聴診、触診、打診、そして生体的観察を経て、様々な数値が範囲内かどうかを専門的知見の元、治療を適用するべきなのか?その治療が有益なのか?と判断する。

つまり治療的見地とは、「臨床的に有効なのか?」が定義の要となろう。

 

診断Aで陰性と判断される確率と、検査Bで陰性と診断される確率Bの組み合わせが作られる。それらをポジティブ・ネガティヴとTrueFalseのそれぞれの組み合わせが存在する。前述の診断結果での疑いありなどは、いわゆる「過誤」の領域もあり得て、サンプルが多過ぎても、ノイズが多くなってまともな議論にならない事も注意しなければならないと。

 

第一種過誤と第二種過誤 - Wikipedia

 

本文に戻って、リスク因子の見地からと上げている内容を確認すると、前述の検査では、数々の因子によって、一つの因子では「異常」と判断されないが、別な因子を有する場合は「異常」と判断される事があると。

一般的には、(相互作用)とも呼ばれる事も在ろうか。逆を返せば、「異常値」を有する場合でも、有益性があると判断される場面もあり得るだろう。

 

統計学の見地から、正常の定義の文の最後は、「検査結果の多くは正規分布しない。」と結論している。年収、学力、人口密度、世論の論調、果ては、ルールとモラル、学習の難易度、好き嫌いなどなど、世の中はkhaosにして、群別にして見ると、それぞれが偏在している。

 

一方、統計学の定義では正規分布すると言う前提が一般的(これ自体が前提条件になっているとも言えるか?)である。

つまり、この定義が存在する事で、次のような定義になり得る。

  • 正常範囲は、測定値の平均から上下2標準偏差までの範囲

  • ここにすべての測定値の中央の95%が含まれる、と仮定される。

  • 一方で、正規分布の外れ値となる「異常」上下それぞれ2.5%は、臨床的な意味が無く、単にそれが一般的でないというだけである。

パーセンタイルの話も、前述の「統計学の定義」が前提であるが、正規分布範囲全体における下方(または上方)のパーセンテージとして正常範囲を表し、試験結果全体のうち低いほうから95%を「正常」、上方 5%を「異常」と定義する。 それらは、測定する特性に寄るだろう。パーセンタイルをウィキペディアで検索すると、分位数(ぶんいすう)と言う事で、統計の代表値の一つとして例示されている。中央値、四分位数、ヒンジ、三分位数・五分位数・十分位数、最大値・最小値などなど。

 

ここまで見ていくと、実は、エラー12で提示されていたのは、我々の携わっている業務フローと類似していると思われなかったろうか?

 

例えば、出来上がった部品の検査するべき箇所の寸法、若しくは、重量、平面度、平行度‥etc。その異常値を有する部品をピックアップして、観測、再計測、触れて確認などなどあるでしょう。

先ずは実務者が「疑わしき者(物)」を取り上げ、次のステージに上がるか、はたまた、実務者で対処するかの判断が来る。

その後、疑わしいと判断されたものは、組織の上位レイヤーに引き渡され、精緻な観察や対処法が適切なのか?などの二次判断が施される。

また、測定値が逸脱している場合、処置自体を中止する事もあり得る。こういった場合、しきい値に寄る機械的な振り分けが一般的であり、効率的である。一方で、それぞれの因子だけでは異常と判断はされないが、相互する因子の組み合わせによっては、専門家の判断の元、中止する場合も考えられる。

 

ここで、一冊の本を紹介したい。

富士ゼロックス

「組織のなやみ研究所」

株式会社富士ゼロックス総合教育研究所の組織のなやみ研究所: 01 なぜ、戦略を実行するのはむずかしい?を iBooks で

何故、戦略が実行されないのか?をテーマに、様々な調査を基づき、論を立てている。

企業が立てられる戦略は、そんなに多くは無い中、組織の実務者に実行出来るのかが、経営者の腕の見せ所と言った所だろう。

この著作の中で、「やらない事を止められない」のが、戦略実行の足枷になっていると指摘している。

新たな戦略は、実務者にとっては、今ある業務から、ブラッシュアップするものもあれば、停止すべき箇所も存在するだろう。

今、どういう状況で、何を目指して、何をしようとしているのかは、重々承知したが、実務者に「何で、それやるの?」「何故、その戦略でなきゃならんのか!」と言う事を、納得させるのが、組織の壁になっているとか。

 

改めて。

 

統計学の誤りエラー12の記載は、我々の業務フローに準じて記述しているのだろうか、または、統計学の性質が、大量な案件を処理しようとする会社社会にフィットしていたのか?この時点では、なんとも言えないが、興味深い。

 

さて、前述のブログにおいて、アドホック的な分析を前提に書かせてもらうと記載がある。

 

分析業務の大半は非定型な業務であり、定型的な日常業務が並走する中、行われると想定しているだろう。

定型業務で扱うデータは、前述した組織の悩みから考察すると、断片的、領域を限定する事で誰でも扱いやすく、迅速な処理を前提として業務設計されているかと思われる。

一方の非定型な分析業務は、横断的、包括的な領域や権限の元、それ相応の専門性と適時のアウトプットを要求されるだろう。

 

皮肉な事に、定型業務の現場で形成された知恵や論点などが、中々、分析業務に反映されにくく、分析業務のアウトプットを、現場サイドが改悪だ!と煙たがれる。

その、哀しい現実は、双方ともデータを扱いながらもアプローチが異なると言う立脚点の違いを、実務者・管理者が冷静な頭で理解しなくてはならない。とはいえ、双方ともデータや事実を扱っていると言う自負とそれ相応の根拠が分かり合えず、啀み合う事は中々難しい。

 

今の話を前提に、もし、経営者が、より精度の高い業務を!と望むならば、どう思考するだろうか?多分、双方の良し悪しを鑑みて、一つは、業務フローの解体、もう一つは、分析業務の分業化にと、思いを巡らすだろう。

 

業務フローの解体とは、管理者から実務者へ相当な権限委譲をし、今まで以上の高度な分析を、現場レベルで行うのである。それに伴う人件費の高騰を、先行投資と捉えるか?はたまた、それ以外か?となるだろう。

事象が発生した時に、前例や解法のある内容ならば、迅速な対応が出来る。一方で、筋道を立てて事象に当たると言うケースには、実務者もその筋道に対する根拠が見出せず、管理者側も、指導や軌道修正に骨が折れる。

そういう事に周囲は、分解して仕事をすれば?とアドバイスはもらえる。

しかし、内心、そうじゃねーんだ!と憤りを感じ、耐え偲ぶ。

更に憂慮すべきは、以前のブログの記事にした、日本の子供達の学習能力の高さの裏で、筋道を立てると言った創造性や論理性が、他の国よりも著しく低いのでは?と懸念している。日本の教育って、定型業務を前提とし、如何に早く仕事を処理する事を是とする教育設計になっているのでは?と考えざるを得ない。解法を解く技術よりも、それらを活かす知恵の熟成と人口減少社会の中で継承をする熱意が在るのか?甚だ、疑問である。

kamimura0219.hatenablog.com

もう一方の、分析業務の分業化だが、内容の熟知や、事象に対する組織の目論見が共有されやすくはなるだろう。しかし、前述の通り、筋道を立てるのが厄介であり、この部分の共有は、人数が増えると困難を伴う。

特に、分析業務に社内のリソースを割く事が難しい、規模の小さな企業はルーチンワークの定型業務を如何に増やすか?に集中し、中々統計学やデータサイエンスなどの関心が薄いのでは?と憂慮するばかりである。

こういった企業の場合は、特に、経営者が管理者を兼任しているケースも多く、かなり経営者の個性が色濃く反映されるだろう。(かく言う小生も、相当に泣かされてきました)

そんな彼らに、実務者から導入を試みようとするのは、中々、挑戦的で有ろうが、とはいえ、憂慮するばかりである。

非定型な分析業務は、定型業務に従事する実務者の人数に比して少なく、援軍やサポーターの存在が無ければ、苦しいところである。

 

経営者の理想を言えば、定常業務の持つ、組織の強堅性と迅速さを持ち合わせながら、非定型な分析業務で得られた新たな知見を、顧客・従業員・関係者のそれぞれ三者の納得を得て、包括的な合意が得られるのか?が、気になるところとなるだろう。

問題を、実務者側が主導しているのか、分析クラスタ側の意見を汲みしてくれる組織なのか?現実的には、実務者側の声量が、大きく強い意見が蔓延る中で、コンセンサスを形成するのが課題かもしれない。

 

とはいえ、こんな不毛で、出口の見えない対立構造を提示して終わり!と言うのは、中々厳しく、何処に落とし所が在るのか、悩んでいた所、この雑誌の巻頭言に手掛かりが有ったので、紹介したい。

 

WIRED VOL.21(GQ JAPAN.2016年3月号増刊)/特集 音楽の学校

WIRED VOL.21(GQ JAPAN.2016年3月号増刊)/特集 音楽の学校

 

 

この雑誌が、今回、音楽の学校をテクノロジーや新たな思考をもとに運営されている方々を紹介しながら、巻頭言に、産業革命以降、肥大化した「経済」と言うシステムが、社会を埋め込んでしまった事に危惧を示している。

 

統計そのものも、見えないデータと言う切り口が、時に対立構造や組織のアイデンティティを生み出し、彼らのエコシステムを形成しているかもしれない。

 

それらを動かす全ては『人』であると明記し、この粗分な文章を閉めたいと思う。

 

今年最後に思う事を

本年も、お世話になりました。

本年最後に、分析を試みましたので、こちらでご報告します。

 

年末にこんな報道があった。

www.j-cast.com

 

ヘッドラインには、こうある。

  接種後に原因不明の痛みを訴える人が相次いでいるとして、日本で接種の推奨が中止されている子宮頸がんワクチン(HPVワクチン)について、世界保健機関(WHO)の諮問委員会が日本側の対応を強く非難する声明を出した。WHOの声明は、こういった副反応とHPVワクチン接種の因果関係は確認されていないなどと指摘。日本のみを名指しして「乏しい証拠に基づいた政策決定」と批判する異例の内容だ。

 国連は、日本の『政策決定のあり方』が「乏しい証拠に基づいている」と言及し、接種推奨の中止が合理的な理由ではなく世論や国民感情の影響で決まったことを非難した、とある。

 

個人的には、ドラマ「下町ロケット」の阿部寛が演じる「完全な技術の確立が、人々を救うんや〜!!」という熱血漢と、小泉孝太郎が演ずる「人々の命を犠牲にしても、可能性がある技術を早期に使っていく」という冷徹な(しかし、有り得ない位、お間抜けな)経営者の衝突を見せられて、やっぱ、技術って最高っ!!と余韻に浸っていた、小生の脳みそは、かち割られた訳である。

 

さて、前述のニュースを知る以前から、医療業界の統計の扱いに関する間違いを指摘した内容を拝読していた。

【日本語訳】生物医学研究文献の誰でも見つけられる20の統計学的誤り

 

数々の例示の中から、新たな「知見」を探れないか?という、知的好奇心の赴くままに、本文をコピペし、スマホのメモ帳に貼り付け、キーフレーズ抽出できるサイトにデータを流し込み、キーワードを探し出し、それらをマトリクス化して、Rで読み込み、主成分分析をしたらこうなった。

 

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どうやら、四種類に分類出来そうだな?と推測出来そうだ。

 

1のグループは、「表記」に関する誤り。

2のグループは、「標準偏差」に関する扱いの誤り。

3のグループは、「試験の設計、検証のあり方」に対する見識不足からくる誤り。

4のグループは、「統計学」そのもの、もしくは、「医療的な見識不足」からくる誤り。

 

そんな風に見えてくる。

 

簡単に書いてしまったのには、理由がありまして、、、。

恥ずかしい話、再現性が自信ありません。

好奇心があるのは好ましいが、自分のスキル不足を露呈する結果になりまして、

来年も、Rの操作に精進せねばと思った、掃除もろくに出来なかった、

この年の瀬にPCに向き合ったという、ご報告でした。

 

それでは、良いお年を。