統計学の「再発明」 その1

<熊本地震で被害に遭われた皆様に、心からお見舞い申し上げます>

 

前回の記事では、多くの方々に「いいね!」を頂きました。本当に、ありがとうございます。

これからも、遅筆でありますが、お付き合いの程、よろしくお願いします。

 

さて、前回の「概念図」の意図する処を、簡単ではありますが、総括をしてみたい。

(縦軸については)

上側が「群」に関係する項目に対して、

下側は「個」に関連する項目が集まっている。

に対して、

(横軸については)

右側が「文系的」、左側が「理系的」と考えられる。

 

本来であれば、概念図の対立軸を各項目毎に考察してみたい処である。

生意気に「知能」という概念の中でも高難度な事を考えるのは、根気のいる作業である。

もう少し、時間と労力をかけて考察してみたい。

 

そもそもは、「誤差」と「言語」の関係を考えていた。

統計学をもう一度見直す事で、磨きをかけていきたい。

 

そう考える中、こんな論述を見つけたので、ご紹介したい。

http://www.ism.ac.jp/~eguchi/scratch_statpnf.html

統計学の現在過去未来 --方法論の視点から--より

 

統計学はその方法論の適用性の高さ,優れた汎用性,客観的判断の提供,その普遍的な理論構築において「科学」の諸分野の中でも非常に優れた一分野である.』

 

「我が意を得たり」という文章であり、この事を読者の皆さまに共有したいという思いを想起させてくれる。前述の文章を読んでいくと、統計学の歴史(統計学史)を紐解きながら、人々の関心がデータそのものに移ってしまった事やその周辺で起こった出来事についても描かれており、是非、心して拝読していきたい。

 

話が逸れてしまったが、ここで、自分が導き出したい事をここに認めさせて頂きたい。

 

私が、ここで導き出したいことは、統計学の『再発明』」である、と。

 

「発明」と名乗るならば、それ「相応の何か」を見せなければならない。

今回は、その考えの一端を、お伝えできればと考えております。

都合、複数回に渡る連載となります。予め、ご了承ください。

 統計学」は、どう理解されているのか?

寺田寅彦先生の著作「地震雑感」の中に、こんな記述がある。 

ただ自然現象中には決定的統計的と二種類の区別がある事に注意を促したい。

(省略)

前者は源因の微分的変化に対して結果の変化がまた微分的である場合に当り、

後者は源因の微分的差違が結果に有限の差を生ずる場合である。

この記述の前では、「災害予知」について述べられている。

この二つの違いの区別が、「本質的なもの」と彼は述べている。

 

ここで「統計的」というのを、自分なりに定義してみたい。

 

(定義として)

⇒『説明すべき事象に対する、ある一定の母数の群の、分布の偏差とその誤差』

 

(解説)

○<説明すべき>事象

「説明」が出来るとは、観測可能である必要がある。

○<ある一定の>母数の群

「一定」という事は、ある程度の「」を有する。

○<事象に対する>分布の偏差

群を構成する「個」の挙動が、結果に影響してくる。

○<事象の起こるべき>その誤差

(統計モデルの)誤差の程度が信頼性につながるが、それ自体が「決定的」とはならない

 

(総括)

観測可能で、ある程度の量を有する母数群を構成する「個」自体の挙動が、結果に影響する。統計モデルの誤差の程度がそのシステム(事象そのもの)の信頼性につながるが、それ自体が「決定的」な変化につながるわけではない。

 

前述の「源因の微分的差違が、結果に有限の差を生ずる」とある。

これは、事象やシステムそのものの差異に照準が当てられたものと拝することができそうだ。

 

この考え方でいくと「決定的」というのは、こう考えられる。

 

(定義)

⇒『特定される「個」の挙動、特性、思考に対する「原因と結果」の組み合わせ』

 

(解説)

(特定される)「個」

特定のみ」で良く、観測や計測は必要としない

(「個」の)挙動、特性、思考

先の解説と同様、「個」の特定が対象であり、観測不要である。

それらは、特性に対する定性的、定量的、見える、見えないは不問となる。

(「個」の挙動)に対する「原因と結果」

因果律であり、統計的のような「個」の挙動が、「決定」自体に影響しない。

(個と「決定」)の組み合わせ

個体毎に、決定の適用の可否、影響度などは異なる。

しかし、適用された事実に基づき、その影響が個の挙動に及ぼす可能性はある

 

(総括)

ある「決定」に対する影響は「個」に対して局所的に影響を及ぼす。

しかしその影響は「因果律」であり、一方通行的な挙動となる。

 

前述の「源因の微分的変化に対して結果の変化がまた微分的である」は、

「個」への影響は、ノード図のような経路的な進路を示す。

 

書きながら思い出したのが、論理学における「演繹法」と「帰納法」の関係に近いかもしれない。

 

演繹法

⇒「ルール(大前提)から結論を導き出す思考の経路」と定義。

帰納法

⇒多くの観察事項(事実)から、類似点をまとめあげ、結論を引き出す」と。

 

●情報と組織

現在の会社組織に当てはめて考えてみると、(トップダウン)と(ボトムアップ)の関係に近いだろうか。現在の会社組織も、下部組織から上層部へのエスカレーションやそれらのフィードバックが肝要となってくる。それこそが、組織全体が円滑に進むか?が決まってくる事をよく思う。

統計学的に考察すれば、「偏差」や「誤差」そのものに機能や信号を与えて、

組織に対して働きかける。

 

ここで、寺田寅彦先生の著作「天災と国防」には、こんな記述がある。

 

もう一つ文明の進歩のために生じた対自然関係の著しい変化がある。

それは人間の団体、なかんずくいわゆる国家あるいは国民と称するものの有機的結合が進化し、

その内部機構の分化が著しく進展して来たために、

その有機系のある一部の損害が系全体に対して

はなはだしく有害な影響を及ぼす可能性が多くなり、

時には一小部分の傷害が全系統に致命的となりうる恐れがあるようになったということである。

 

特に、現在の組織は有機的かつ体系的な重層的な構造を有している。

そのため、情報の流通は、重要度を増していると感じずにはいられない。

 

しかい、ある雑誌の論説に、こんな記載があったので紹介したい。

 

「経験とは多面的構造を有し、現場で過ごした時間や、顧客に対応したり特定の人々と働いた時間を含めて、多種の経験が問題の細部に至るまで理解することや解決法を導き出すのに役に立ち、効率や効果を高める。

 

経験自体は必要と考えているが、就中、専門家は一つの職務に長く携わってきたことがもたらす弊害があるということを見落とす可能性がある。それは、変化に対する抵抗も増大させ、自分の見解と対立する情報を退ける傾向を強めることもある。」

 

また、こうも書いてあった。

 

「標準的な業務慣行は、めったに変えられることなく、専門家が推奨したことのみが実行に移される」と

 

(以上)

Diamond Harvard Business Review. May 2016.『なぜ「学習する組織」に変われないのか』より)

 

こうしてみると、組織における情報の取り扱いというものは、なかなか難しい。

しかし、これが鍵になりそうとも考えられる。そこで、話を一旦おさらいしておこう。

 

統計学の「再発明」』というお題目の元、「地震雑感」の記載から「統計的」「決定的」という文言に対して、自分なりの解釈と考察を述べさせていただきました。

それらが、論理学の演繹的・帰納的思考に通ずるものがあり、それらは会社組織にも通ずると。

意思決定・思考の原点ともいえる、情報の流通の重要性と、専門家が陥りやすい思考のデバイスなど、その扱いの難しさが鍵となりそう。と

 

次回は、「組織における情報」を深く考察してみたい。