「誤差と言語について」考えてみたくなったら、意外な結果になったので、記事にしてみた。

寺田寅彦先生が、統計の一番の利点は

誤差を考えなくていい事だと。

統計的方法の長所は、初めから偶然を認容してかかる点にある。

いろいろな「間違い」や「杜撰」でさえも、

最後の結果の桁数には影響しないというところにある。

 

そして、関係要素の数が多くて、

それら相互の交渉が複雑であればあるほど、

かえってこの方法の妥当性がよくなるという点である。

 

 寺田寅彦

“比較言語学における統計的研究法の可能性について”

そして、

生涯に渡って研究されたのが、言語についてであった事に、

尊敬とその先見の明に感嘆しつつ、

 

最近のどうでもいい報道に、不機嫌を示しながら、書いて見たいと思う。

 

とはいえ、残念な嗜好をした思考回路を有する小生だけの論説は、

チラシの裏側にでも書いておけ!と厳しいお咎めを受けるのがオチとなる。

 

今回、scanamindを使った分析を、一緒に見て頂ければ、幸いである。

 

本題に入る。

 

誤差は、測定をして定める許容値を逸脱する者と解する。

言語は、社会や行動そして思考を司る、

コミュニケーションの総体と考えられる。

 

人々は、

 

知識や知恵と言った思念体である。

と、着手してみる。

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事象に縁した者は、直接観察するだけでなく、周囲の意見も参考にして考える。

その人の見た目、言動、仕草、態度等々。

「人は見た目が9割」と言う本もある位だから、その影響は大きいのだろう。

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それらを総合的に確認し、善悪、正邪、大小、損得などを分類と比較をしている。

世の事象全てが、これらの判断基準に照らされて考えられると、

それらの境界線が存在する事になるだろう。

 

iPhoneが存在しない前に、iPhoneと言う名前が存在しなかった様に、

事象を認識しなくては、名前や思索などは存在出来ないだろう。

 

名前や思索を有する存在は、それぞれに性質を有し、挙動と環境への影響が出てくる。

 

某コメンテーターのあの声に騙されたのは何とも言えないが、

彼が15年以上もラジオで、大物ゲスト相手に対談出来ていた事は、

なかなかできる者ではない。

 

さて、言語について考えると、

 

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人は行動によって、何かしらの価値を有すると考えられる。

行動を決めるのは、知識を介した、言語に依存した、

コミュニケーションが主となる。

 

知識は、前述のコミュニケーション、または、総合的判断だけではない。

ルールや制度を厳守しようとする理性的な処理や、

数理的な処理、分析や論理的推考など細部に渡る思考処理を担っている。

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総合的判断は、コミュニケーションの一端を担い、それらは感情を伴う。

 

総合的に合理的な判断を、人間は出来るかと考えたいが、やはり感情の支配は大きい。

 

以前テレビで、日本語は英語と比較して分析的だと論じられていた。

学者曰く、英語は知覚した、痛さも熱さも冷たさも

“ouch!!”と一言で片付けるから、そうなのだと。

 

確かに、日本語では、「痛いっ!」「熱いっ!」「冷たっ!」と

事象の性質と知覚が混在している。

 

だからと言って、日本語が英語が分析的なのかと言えば、異を唱えたくなる。

 

英語が知覚のみを発し、その後に事象の性質を検証していると

考えてみると、別の観点が考えられる。

 

知覚と事象の検証を別にする事により、

事象への対処」に修正が効くかも知れない。

外国人のリアクションが極端に大きく、

その割に中身が無い様に思えるのは、

彼らのご先祖様が、陸上に境界線があると言う、

緊張感の高い世界で考え出した、

言葉の構造だったかも知れない。

(もちろん、よく言われる事象と観察を

立て分ける思想なども影響していると思える)

 

日本語の知覚と同時に、事象を表現するやり方は、

前述の「事象への修正」が難しいのでは?と考えられる。

 

最近の報道で不機嫌になるのは、

「例のブログ」を声高に叫んだ

国会議員の話である。

ルール違反でありながら、

メディアは判官贔屓の様な取り上げ方で、

それが世論の受けが良い事だろう。

 

確かに、ブログと言う匿名性の高い世界での記述が、

国会と言う透明性を担保しなくてはならない環境で、

取り上げられるのは、んんっ、まぁ、黙認しましょうか。

 

寧ろ、憤るべきは、男女機会均等法が施行されてから、

30年が経ち、その間に何度もこれにまつわる政策提言が

何度となく為され、改善と改良は、なされているはずだ。

 

それなのに、

 

今回の様な感情剥き出しの内容で、国会が揺れている(様な心象)を

与えようとしているのが、承服しかねるのだ。

 

メディア、世論、有権者、そして国会議員とそれぞれが

勝手にルールを逸脱して、主張と絶叫を繰り広げている。

カッコいい話では無い。

それらを調査し、提言し続けて来た方からすれば、

噴飯ものと言わざるを得ないだろう。

 

そして、前述の日本語の難しい所に繋がってくるが、

一度決めた物が、なかなか修正されにくい、若しくは、

心象が変わりにくいと言う特性が、悪い方向に出やすく

なるのでは?と推測する。

 

さて、ここ迄は言語について、思いつくまま書き認めてみた。

今度は、誤差について考察してみる。

 

誤差は、「量」である。

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また、技術の世界を想定すると、

精度と誤差は、表裏一体の関係と考えられる。

より良い精度を求めれば、より誤差は縮小する方向になる。

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経営、医療、数理、技術等、「改善や改良をする」

との要求に対し、取り得る可能性は、次の三つと考えられる。

 

一、その事象の品質そのものを上げる

一、その事象の誤差を極力減らす

一、その事象以外の分野に挑戦する

 

もし、科学的根拠を!とお求めになるならば、

インプットに対するアウトプットへの満足度を考え、

それでも満足行かないならば、

他のやり方を見つけるのが現実的だろう。

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その議論をする上で、数字というのは厳しいかも知れないが、

厳格に結果を示す事になる。

 

前述の「見た目が9割」で提示されたこの割合にどんな根拠があるのか、

正直存じない。

しかし、数字の大小、配列、割合、指標は、小市民な私を含めて、

人々は翻弄され、時にそれらを利用し、社会は回り出している。

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総合的判断、

(定性的で類型的に分類する全体的な判断と定義)も、

分析的思考

(境界を定めて、断片的に、その実体に

影響されない観察から得られる数値や状態から、

判断する事をそれと定義)が

社会生活の中で求められる。

人々は、それらを知識を介して、善悪、正邪、優劣、明暗と判断されるだろう。

 

やっとここまで、書き連ねてキャストは揃った様だ。

さぁ、ここからが本番です。もう少し、お付き合いの程を。

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総合的判断は、ルールやコミュニケーションが

存在する環境が大きく影響される。

当体だけでなく、その周辺の有象無象にも影響があり、

諸行無常と言った、一定は存在しないとなる。

 

分析的思考は、客観視が基本であり、

構成要素を取り出し、測定し分析する。

測定精度が正確である事は大切だか、

誤差を生じさせない方法論も議論するべきだろう。

そして、視点は固定され、大きな変化は誤差と扱われるだろう。

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この二つの思考や判断は、

知識を中心とした(脳内)の処理であり、

時に補完をし、相対し、連携し、対立しと、

その瞬間瞬間で、関係性を変えてくる。

総論賛成、各意反対は当然とし、時に正論で有っても、

受け入れられなかったり、

または、切り文で判断されたり、

真逆の結果となったりと、様々である。

 

思考や判断の処理は、脳内の処理では影響を与えないが、

環境に行動や言語を用いてコミュニケートすると、

その脳内の処理に影響を与える、

いわばフィードバックの構造が存在する。

仏教の考えに、人の心というのは、

縁によってコロコロ変わっていき、

それは、一日で6万回変わると説かれている。

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実は、分析し思考する事は、

本当にエネルギーと時間的コストのかかる行為とも言える。

それらを人々によって構成される(人間)社会は、

最適なルールや定石を守る事で、

ある種の心地良さを生み出してくる。

 

これを「文化」若しくは「(社会)の土壌」と名付けておこう。

 

ところで、ゲームの魅力って何だろうか?

ある方がゲームの核心とは、勝ち負けがどうとかではなく、

インタラクションの積み重ねそのものだ、と述べていた。

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人の生活には、何で、挨拶しなきゃいけないの?とか、

何で、エスカレーターはどちらかに寄らなくてはいけないの?など、

ルールが存在し、その理由も存在する。

挨拶は、「私は、怪しいものでは有りません。」と言う

自分からの意思表示であり、

後者はその方が効率が良いからと言うのを、

長い時間培った経験が証明している。

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そう考えると、ゲームのルールや、

プログラムのアルゴリズムや統計の検定法は、

「知識」と言う対象点に立っている存在かも知れない。

受動的にルールを守るのか、能動的にルールに汲みするのか、

この立ち位置の違いは分かりにくいが、大きな違いになる。

 

今回、誤差と言語と言う、性質の異なる二つを思索する中で、

知識を中心に前述の二つはもちろん、それ以外の事象(思考活動)の

立ち位置が見えてきた。

 

最近話題のAI人工知能)や、ディープラーニングなどが、

ニュースでも取り上げられる事も多くなり、

AlphaGoの活躍や、小説を書くAIの活躍、

はたまた、将来人間の仕事がAIに取って変わると言った

煽り気味な報道を散見する。

 

今回、考察してみるまでは、漠然とした不安が心証として有ったが、

知識を客観視し、自分なりの全体観が見えてきた。

 

「好奇心」こそが、真の経済を救うのか?

 

AIも、知識と言う範疇で考えれば、部分的な機能を特化し

先鋭化させた存在である。

その部分のみに焦点を当てれば、人間は、機械には到底敵わないだろう。

 

しかし、全体的判断は、まだまだ人間の勝利で有ろう。

 

現在は、産業革命以降の分業化を端とする、

事象の細分化、クラスタ化が組織の肥大化を齎らし、

多国籍でグローバルな、分業体制が世のスタンダードと

謳われる様になった。

 

現在の大学教育も、社会の分業化の影響で、

各分野で専門化と先鋭化を招き、

世間で言う、文系、理系の区分が出来てきた。

 

しかし、それらが結果として、コモディティ化も招いている。

 

スマートさや合理性を求め続けた結果が、

没個性的な物、情報過多、人(の思考)、通貨の価値、

などなど、疑問となる事は多くなる。

 

世界のTOYOTAが、人工知能事業化に本腰を入れたのも、

ビックリな話で有ったが、学際的な取り組みだけでなく、

リベラルアーツ的な尺度に評価される時代が来るのでは?と

予見せざるを得ない。

 

さて、ここまで知識を中心とした、人間の思考、判断、推論、

行動やコミュニケーションの関係性を見る事が出来ました。

 

特に、幾つかの対立軸が確認出来た。

列挙して見ると、以下の通りで有ろう。

  1. 総合的判断」「(局所的)検証」
  2. 「言語」「数値」
  3. 「ルール」「誤差」
  4. 「文化」「決め事」
  5. 「(感情的な)コミュニケーション活動」「(環境から要求される)合理的行動、若しくは、思考」
  6. 「感情的」「合理的」
  7. 「知覚」「事象の検証」

これらを基軸に、知識に影響を与えるであろう、情報について

またの機会に考えてみたい。それでは。