素人遊戯な試行錯誤が転生輪廻で喧々諤々
最近、戦前の物理学者であり、随筆家であった、寺田寅彦 - Wikipediaの著作『比較言語学における統計的研究法の可能性について』を拝読した。彼の著作には、統計にまつわる記述も数多く見受けられる。
統計的方法の長所は、初めから偶然を認容してかかる点にある。
この一言を前に、僕たちは何を想うだろうか?
技術的な観点で言えば、誤差に対する姿勢と捉えられる。分析•計測には誤差が付き物である。それらを理論的に、若しくは、経験的にオミット(無視)したり、丸めたりする事もあり得る。
私は、工学の出身であり、数理、科学を利用してきた。では、何故、其れ等の理論が必要なのか?
まずは、【物を完成させるため】と考え付くが、それだけではアマチュアガレージや研究室レベルでも、可能であろう。
寧ろ、企業が大切にしたいのは、高品質で、永く再現性の高い、製品プロダクトを提供する事を第一義と考えられた。
著名性のあるブランドの構築と独自性のある技術とそれらを制御し支配するルールが、企業を中心に遵守する事で生産と供給を大量に、効率良く、安心して提供する事が美徳とされて来た。
それらの原則や思想が、戦後日本を築き上げてきた。
一方で、現実はどうだろうか?
- 工場は、配慮や警戒心、ガレージに居る様な高揚感を排除し、作業者は間違いを犯さないよう、を単純な流れ作業を要求してきた。
- 社会には、新たな可能性を見出す努力と試行錯誤が排除された。
- 規律が強調され、遵法主義だ、コンプライアンスだ、スクールカーストだと、明文化された、若しくは、暗黙のルールの遵守を要求してきた。
寺田自身が生きていた時代は、天才物理学者 E.アインシュタインの出現や、近代化の流れにあった。
しかし、彼自身は物理学者の立場でありながら、科学が万能ではないという事を強調してきた。随筆家としての彼は人や現象をつぶさに観察•記録し、科学や社会の儚さと人間の可能性に言及し続けた。それらが、現代になっても読み継がれる理由かもしれない。
そんな彼が、統計に纏わる記述をしていたのは、「仏教的な寛容さ」を持って、誤差やエラーなどの偶然にも、新たな可能性があると信じたのかもしれない。所謂、二元論の如く、正邪•優劣•大小•権実•本偽、等々の強烈なコントラストで語る事で事象を捉える西洋的なアプローチとは異なるのではないかと考えるのは、私の思い込みだろうか?
さて、引き続き、引用は続きます。
それで、この方法を真に有効ならしむるには、むしろあらゆる独断、偏見、臆説をも初めから排する事なく、なるべくちがったものをことごとくひとまず取り入れて、すべての可能性を一つ一つ吟味しなければならない。軽々しい否定は早急な肯定よりもはるかに有害であるからである。
何かを学ぶ時、師匠を持つ事が一番の早道である。独断、偏見、臆説という小さな自我を乗り越えるのは、聖人君子でない限り、一人では出来ない。
集積されたデータから解析した結果は、ただそこにある事実となる。しかし、人々がどんな意思を持って観るのかによって、評価が変わっていく。それに対して、消極的な意見が存在するが、よく捉えれば、それが社会の多様性と捉えるのも可能かもしれない。つまり、評価まちまちであっても、他者がそれを受容できる。
その事を、受け止められる社会になる事が、結果として、人に優しい社会の構築に貢献出来るのでは?と、ふと想起する。
さて、どんな最中、そんな最中に、一般社団法人 データサイエンティスト協会が設立された。組織の準備に尽力された方々、関係ある企業•団体、様々な所で設立を首を長くして応援していた方々、全ての方々に『お疲れ様でした』と労っていきたいものです。
あるエンタメ作品の主演を務められた方の演技論的な何かを、ご紹介。
主役、脇役全てが、非常に個性的なキャラクターの作品で、この主役の方は何を思ったのか?
『主役の在り方は、演者それぞれで、主役がストーリーそのものを引っ張っていくやり方も有るだろう。今回は、方向性が右に行く、また、その真逆を行くキャラクターを先ずは受け止め切って、出来る限り、その作品を面白さの真ん中に持っていく努力をしていったつもりだ』と。
これから、多くの方々の期待と要望を応えていけれる、懐の深い組織になる事を、切に願っております。
こんな、個人的な読書感想文に、お付き合い頂き、ありがとうございました。それでは。