喜怒哀楽、からの、意思表示

⚫️趣旨として

日本語と英語、それぞれの感情と行動の表記に着目し、どんな関係性があるのか?また、それらの流れを形式的に記述し、その真意を考察する。
また、彼らの地政学的状況から、言語の形成において「何が必要だったのか?」を考えてみる。

⚫️日本語と英語の「感情と行動の表現」を比較する


ここでは、感情と行動の表記に着目し、下記の点を確認する。

  1. 行動に関する表現
  2. 感情の表記について
  3. 日本語の動詞の活用形について

  • 行動に関する表現

まずは、行動の表現を、簡単な表現から確認してみる

「円を描いて下さい(描きなさい)」は、“Draw a circle.”となる

日本語では、
対象の物、ここでは、「円を」が先に書かれ、
指示語の「描きなさい」は、後に来ている。

一方、英語は、命令形であれば、
指示語である動詞“Draw”が先頭に、
その後に、対象の物“a circle.”が表記される。

ここで、優先すべき内容が、先頭に来ると考えてみよう。

日本語は、対象の物を先に書き、
英語は、指示語などの動詞、つまり、
動作や指示者の意思表示が、大事と考えられる。

  • 感情の表記について

今度は、感情に関する表記を、それぞれ例示してみる

日本語では、例えば、私は(驚く)とか、私は(怒る)などと、
(主語)➕(自動詞)

というふうに、感情の表現が、行動やアクションを伴う能動態として表記され、自動詞として規定している。行動やアクションを伴うとなると、そこに発言者の意思が存在すると考えられる。

一方の英語では、例えば、(驚き)の表現は、[ I am surprised … ]のような

I ➕ (be動詞)➕(受動態の動詞)〜

と表現し、受動態に変型した動詞は、《他動詞》となる。
そして、日本語に訳すると、この場合だと、「私は、〜(驚か)された」という形で、表現される。
《驚かされた!》と聞いての、第一の疑問として考えうるのが、「誰に?(もしくは、何に?)」となる。この場合、他動詞の後に、“to(by)…”と表現する。

英語は、感情を受動態として表記し、その後の行動に対して、意思と自主性を持った能動態として、表記される。

  • 日本語の動詞の活用形について

ここでもう一つ、日本語における受動態の表記について確認してみよう。

まずは、英語て考えてみたい。
動詞の変形は、例えば、過去分詞で有れば、〜edを連結させる、名詞形にするならば〜ionを連結するなど、明確なルールが存在する。

一方、日本語においてはどうだろうか?
日本語の動詞は、それぞれにおいて、活用形が多岐に渡る。
例えば、「書く」を例に考えると

書かない
書きます
書く
書く時
書けば
書こう

このように、直接、動詞を変形させて時制や、文意としての指示(命令なのか、勧誘なのか)の意味を持たせている。
この事で、文章として、受動態のような表記も可能となると、推測される。

ここまでのまとめ

1,優位性が高いものとして、
日本語は『対象物』であった。
それに対し、英語では、
意思の表示』が大事と考えられる。

2,感情の表記は、
日本語では、心理状態を主観的に捉えられ、発言する者は、主体性、能動性を伴っている。
また、能動態で表記するため、主体のみで表現可能となり、客体の存在は、重要視されていない。
一方、
英語では、心理状態を客観的に捉え、発言する者は、その事(感情)に対しては、受動的な態度である。受動的把握を伴う事で、『語っている主体』と『(〜した)客体』の関係性の表示を見て取れる

3,動詞に関して、
日本語では、直接、動詞を変形させて文章の時制や、文意としての指示(命令なのか、勧誘なのか)の意味を持たせている。これにより、文章として、受動態のような表記も可能となると、推測される。
英語では、動詞の変形は、例えば、過去分詞で有れば、〜edを連結させる、名詞形にするならば、〜ionを連結するなど、明確なルールが存在する。

二つの言語の表現の違いを比較する事で、それぞれの言語において優先内容や、感情と行動に対する態度や動詞に関してのルールを確認出来た。

英語を中心に使用する西洋人は、行動に重きを起き、感情と行動が分離して、感情と行動の一連の動きを観察可能な物と観れる。一方で、日本人の感情表現は、主観性を介する表記のため、人格やパーソナルな考えを有しているとなる。一方で、動詞を直接変形させて、受動態のような表現も可能とした。

⚫️感情と行動の一連の動き


感情と行動の間で動く一個人の人格。それぞれには、どんな関係性があるのか?また、それらの流れを形式的に記述するとどうなるのか考察してみよう。

まず、能動性•主体性を持ち合わせた【主体】が存在する。
また、主体に対しての【客体】が存在する。主体とは異なる他者であり、また、主体からのイベントを受け止める存在とする。

【感情】と【行動】の間には、人格を有する主体の中で、ある種の生物学的な生体反応が働くと考えられる。
その駆動には、構成要素だけではなく、負から正への流れ《Flow(フロウ)》が必要と考えられる。
これらは、それぞれの言語において、[受動的][能動的]という、対比をもった『態度』があると、考えられる。

ここで、【主体】【客体】【感情】【行動】という4つの構成要素が揃った。また、【感情】【行動】に対して、[受動的][能動的]な2つの『態度』が存在する。

  • 英語の考え方
形式的に記述すると、以下の様と考えられる。

〈客体〉→[受動的]→〈感情〉→〈主体〉→[能動的]→〈行動〉→〈客体〉

客体からの信号やアクションを、受動的な態度で、感情として捉えて、それに対して、主体は、能動的な行動を選択し、環境などの第三者を含めた、客体に反応する。

このモデルの特徴を上げると、

  1. 2つの態度が‘受動的’→‘能動的’の流れを有している
  2. 〈感情〉〈行動〉の間に〈主体〉が存在する。
  3. 構図が〈客体〉から始まり、〈主体〉を経て、〈客体〉に帰結する

これらの特徴を、日本語の場合においては如何に表記するのか。

  • 日本語の場合

先述の特徴の中に、態度に対する流れが存在した。一連の流れには、受動的、能動的な働きを存在させるのが必要である。

日本語において、【感情】を、能動的な物と捉えている。
となると、
感情の対局にある【行動】が、受動的な挙動を示さねばならない。

ここで、前述の動詞の変形の多様化、自由度の高さを有する事で、行動に対して、受動的な働きを持たせ、感情と行動の間の動きに対する整合性を形成する事が可能となる。

これらを踏まえて、日本語における感情と行動を記述すると以下の記述となる。

〈客体〉→[受動的]→〈行動〉→〈主体〉→[能動的]→〈感情〉→〈客体〉

構成要素の順序が、

【英語】

『感情→主体→行動』のところが

【日本語】

『行動→主体→感情』となっている。

二つの言語の間に、構成要素の配置が、「感情と行動の位置が異なる」以外、《配置が同一》というのが確認出来た。

ここまでのまとめ

  • 受動的、能動的な態度という対比を用いて、生体反応に指向性を持たせることが可能
  • 構成要素の配置は、環境などの客体を始点とし、主体を経由し、客体が終点となるモデルとなる
  • 主体の前後に、感情と行動が配置され、それぞれに2つの態度が配置される
  • 条件や構造が、非常に単純なモデルを元に、考察が可能となった。

疑問点

とはいえ、この記述には、幾つかの疑問点が生じている。

  • 日本語において、〈客体〉から投げかけられた、《受動的な行動》とは、具体的には何を記述しているのか?
  • 〈感情〉と〈行動〉の位置の違いで、果たして、何に変化が生じているのか?
  • 〈主体〉から射出された《能動的な感情》は、何処へ向かうのか?
そこで視点を変えて、彼らの地政学的状況における生活習慣や、思想•信条の観点から、言語における必要性のある内容を考えてみよう。

⚫️地政学的状況の比較


  • 西洋文化

地続きで広大な大陸にキリスト教•イスラム教•仏教などの、考え方や行動原理の異なる民族が多数いる。狩猟民族である彼らにとって、領地の大きさが、生活の糧に影響を与えたのは、想像に難くない。
情感よりも行動、体裁よりも時間と場所の明確化が優先されたと考えられる。
彼らにとっては、状況把握が第一義であり、この後、どう行動するのか?で、生活の全てが決定した。
例えば、獲物が今其処にいるのか、または、其処にいたのかで、判断に影響を与え、彼らの生活にも、多大な利益(もしくは損失)が出る事が言葉の習慣にも影響を与えたのは想像に難くない

そんな彼らが、共通となりうる言語は、最小公倍数の表記で、出来る限りの効果を得たいと考えたのかもしれない。


文章としての特長として、
  • 形式は、シンプル、かつ、明確
  • 使用する文字は、26文字のアルファベット
  • 文書の構成は、分かりやすく
  • 主語と述語は、なるべく近接に
  • 明確な意志は単語としてモジュール化(ex,禁止形のDon'tや、勧誘形のLet'sなど)

時制の表現や場所に対する表記に明確なルールを定めている。
迅速な状況の把握を積み重ね、構成的理解に
指示や勧誘などの形容詞•副詞などを、モジュール的に柔軟に運用出来る仕組みを構築している。
同時に、感情表現を受動的な表記にする事となった。

  • 日本

単独の島国として、単一民族を形成し、農耕民族として、形成されたと考える。

時間に対する考え方が、厳しい規定されていない。寧ろ、種蒔きから実りの時、また、その後まで、定まった場所での共同生活を形成し、長い時間を、如何に心地よく関係を維持していくのかというのが、大きな課題だったのかもしれない。
他国からの侵略が少なく、単一民族として言語体系に、大きな変化が少なく、様々な表現が積み重なり、日本語という独自の言語が形成された。

さて、空から日本を見ると、山や斜面地などの住みにくい地形で形成された日本の大地で、人が居住しているのが、ごく一部の地域だということ。友好的、若しくは、敵対視する勢力との争いがあったとしても、限りある土地を共有しないと、生活も困難だったのかもしれない。そうなると、村というテリトリー内で行動し、隣接の町と協調するのが合理的配慮だったのかもしれない。

こういった環境において、言語として重要だったのは、環境などの客体が変化した事を、ビビッドに知れる事が第一義だったのかもしれない。
そのためには、

  1. 発信者である主体に対し、『何を感じたか』という情意的把握を尊重した
  2. 言語自身にわざと冗長性を持たせて、人間の潜在的機能であるパターン認識を使って、細やかな差異に着目するような言語としての構造設計をしたのかもしれない。
  3. 一方で、生活の基本となるルールの構成的理解は、暗黙知として共有化し継承され、簡素化を図ったのでは、と解釈する。

その、日本語の特長として、

  • 文字は、漢字•仮名混じり
  • 主語と述語を離して、修飾語•副詞が間に入る
  • 文章の真意が、最後に来る、若しくは、述語を変形させて表記し、分かりにくい
  • 類義語の種類の多さ

疑問点への解答として

前述の《受動的な行動》とは、環境などの客体における『小さな機微』だったと推測される。
これまで例示した、言語の構造から見た、感情と行動の一連の動きと文化の違いからも、やはり、行動原理やそれぞれの第一義が異なる事が確認できた。
とはいえ、
日本語における、溢れた感情は、どこに向かったのか?
提示した記述モデルでは説明が困難がある
客体にも、何かしらのモデルを考える。

  • キャビテーション

ここで、一つの話題を紹介します
百均のヒット商品に、沸騰した鍋のお湯の吹きこぼれを防止する商品が、テレビで特集されていた。容器の中の水が、加熱される際に現れる小さな気泡は、それぞれ単体では割れにくく、お湯の中に留まってしまい、結果として、吹きこぼれる。商品の開発者は、土鍋に敷かれた昆布を観察し、そこに付着した気泡の挙動に気付いた。昆布についた小さな泡が結合し、大きな泡となって、割れやすくなるのを見つけたそうだ。
儚くも虚ろで、実体のない感情は、鍋の中の水の大気圧により圧縮されて凝縮した小さな気泡となり、浮上する。特に障害物などなければそのまま浮力で上昇し、水面で弾ける。
その一方で、小さな泡が集まれば、大きな泡になり、それが弾けた際に衝撃波が発生する。

SNSなどの市民同士の知識の共有が、新たな衝撃波となるのか?または、いつの間にか、インターネットが普及し、生活に欠かせない知識になったように、新しい何かが発生するのか?

今、政治においても、社会においても、また、個人においても、大きな転換点を迎え、意志の表示が不可欠となる。
しかし、日本語は言語の構造として、行動を伴う意志が見えにくい。
己の情念だけでは、将来の新しい世界を切り開く言葉とならないかもしれない。確と、注意して、この言語と向き合わなければ、ただの愚痴•不満•不安になることを、注意しなければならない。

また、西洋の尺度と自分達のそれを、混同するのではなく、価値的に用いる賢さと思慮深さを身につけなければいけない。

時代を開く新たな衝撃波が、『統計』で有ることを願うばかり。