文脈としての統計学

 

昨今、考察をして苦悩をするを繰り返していた統計学に関する思索に、それなりに纏まってきたのでここに公示してみる。

 

先ず、この文章をまとめるに当たり、scanamindを使用して、キーワードの整理と骨組みが捗った事を皆様にお伝えします。感謝の意も込めてリンクを置いておきます。是非とも、お立ち寄り下さい。

 

スキャナマインド公式サイト

 

 

ここから、本題です。

 

  • 抑(そもそも)、[人間]は行動する動物であり、学問や物語は「人間の営み」によって産み出された財産である。
  • 人間が行動する時、ある「物語」や「概念」に基づいたり、(組織)の「前提条件」ならば、それらが行動の生み出す【要因】となる。
  • 一方で、「技術」や「統計」「分析」「データ」は、その要因の【裏付け】と考えられる。

「物語」や「概念」やある程度の「前提条件」は、普遍性を有し、人々は共鳴する。また、《考える》というエネルギーを解放させ、心理的な納得を決定づける。

一方の「技術」を活かすにしても、「統計」で「データ」を「分析」するには、私見であれ、客観視しているにしても、理論を動かす「内的エネルギー」を充満させなくてはならない。また、分析をしても、それを、社会的な説得力を有していないと、民衆の純朴な視点に倒される。

 

「心理的納得」と「社会的説明」という条件の違いをどう説明するのか。

人の脳は、右脳と左脳とで働きが違うという。

一般的には、右脳は「感情」を、左脳は「理屈」を司ると言われている。

 

 

人口増加期であった高度経済成長は、何か生み出せば簡単に結果を産み出せるという、行動の時代とも言える。「何故!」と考えるよりも、「ありがたや~」と感謝しながら生きられれば、それで事は足りたかもしれない。

 

しかし、現在はどうだろうか?

人口減少に伴い、GDPは減少し、「頑張っても、報われない」という感覚に苛まれるのも無理はない。「あー、そうですか。」と傍観を決め込む若者も多くなり、その空気感は肌寒いものだ。

 

そんな折、Googleの最高幹部が、アメリカの大学の卒業式で「今後10年間で最もセクシーな仕事は、統計学者である」と断言した。社会は、統計学の入門書がベストセラーとなり、また、人口減少で受験者が少なくなる中でも「データサイエンス」を基軸に、新学部が設立されたりと社会がキャッチアップに躍起になっている。

 

しかし、「統計」は、前述の「社会的説明を有さなくてはならない語りにくさ」だけでなく、様々な対立軸をくぐり抜けていかない宿命を背負わされている。

 

[人間]という視点で考えてみよう。

 

  1. 一つは、人々と共感し倫理的に生きながら、技術や知識を用いて「生産」をする存在である事。
  2. また、物語や概念、または、社会通念といった知識や説明を求められるという事。
  3. そして、知識やデータは単体では存在し得なく、一方の人間は、社会通念や物語、概念などで関わる機会を失う可能性があるという事。

 

一つ目の、「生産」をする存在であるという事は、観測対象としての対立として考えると、生産物を観測するのか?(生産をする)個人・団体そのものを観測するのか?と考えられる。また、『生産』という行動、と「社会通念」「概念」といったルールを超越した『文化』に抗う構図も見え隠れする。

 

  • 文化は、時に人の思考する「エネルギー」を解放して、その甘露を享受できる。
  • しかし裏を返せば、その人にとって「制約」となる。

 

二つ目の、知識や説明を求められるという事は、ある種のコミュニティー(集団・団体)における存在意義と関連する。企業におけるIR活動や知的財産権の精度は、彼らにとって高コストであり、生産性に影響あるはずだか、熱心である。一方、個人と公共には選択性を有しておらず、それぞれお互いが一種の対立はある。(自分が、行政と仲が悪いのはこの理由か!)

冗談はさておき、個人・公共それぞれがある集団・団体というコミュニティーとの間に関係性を有する際、明確なコスト及びエビデンス(証明書類)の開示が必須となってくる。前述の『文化』の中で営みを繰り広げる「個人」が、その『文化』と異なった集団のルールに従う必要がある。

 

何故、ルールに従うのか?組織にとって損失は悪であり、コスト高の根源となる。人に残業をさせてでも成果物を得たいと考え、その手の企業は、スローガンという思考停止ワードを提示する。所属している間は、それがテーゼとなる。

哀しいかな。考えるよりも、ルールを適用するのが時間的にコストが掛からないというのは、管理職になって良くわかった。

 

さて、生産を伴わなければ、個人が出来るのは観測であり、そこから始まる思考と分析。そんな中、

 

  • 統計学は、個人にとっては
  • (内的納得は得られるが)物質的な得るものもないが、
  • (試行錯誤の時間は失うが)精神的な失うものは存在しない。

 

三つ目の、関わる機会を失う可能性があるというのは、「公共」や「開示」や「エビデンス」や「データ」や「コンピュータ」や「技術」や「統計学」といった、これらのキーワードが、時に「味方」になり、ある時は「敵対」するという二面性である。

その中でも、前述の「技術」や「分析」そして「統計学」といった『知識』や「コンピュータ」や「データ」などの『デジタル化された記述』は、人の手が無くては意味をなさない。

その「人間」は、「個人として」「集団として」「公共の一員として」存在している。

公共の一員として(否定)を唱えたいが、集団の一員として(肯定)を甘受しなければならない時、個人としての「自分という人間」は、「あー、そうですか。」となるのは、非常に危険である。

裏を返せば、強烈な成功体験を語られれば、冷淡な態度は消え、歯止めのかからない衝動へ突き動かされる。

 

人間は、「物語」に突き動かされる。

  • 「組織にとっては、存在意義をかき消され」
  • 「個人にとっては、公共と抗う事が出来ない」
  • 「公共にとっては、個人の動向に注意を払っている」

 

しかし、「物語」は、「統計学」となかなか仲良く出来ずにいた。

なぜなら、何処まで言っても、屁理屈になりかねない、理論の積み重ねであったから。

「人間」は『知識』や『デジタル化された記述』を手にし始めて、何かの「物語」を語れるのでは?と期待している。

 

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ビッグデータやデータサイエンスという言葉が飛び交った昨今のこの世界は、

今年どんな言葉や「物語」、「概念」が飛び交っていくのだろうか?