お久しぶりです。
「統計学は学びにくい」という話は、よく伺う。広い分野での使用は、多くの方が存じ、触れている状況にも関わらず嘆きが聞こえるのは、何か原因があるのだろうか?
単純に、それぞれの分野での統計学に対する捉え方、解釈、使用用途が、学習者の目的と合致していないという、ミスマッチ問題だと断定するには、少々、憂慮を覚える。私を含めて、多くの理解が出来ているかと問えば、そうなのか?と疑念を覚える。
以前に読んだ、「データサイエンティスト育成ネットワークの形成」を読み進めていくと、いかに、広く、普く、統計が理解されていないか、を痛感せざるを得ない。
言葉は踊れど、理解は得られず。
そんな思いになるのは、クライアント側の世界は、思っている以上に事が進んでいない、そんな、焦りを感じずには思わずにはいられない。管理者の立場で言えば、作業者が自分よりも年上の人間が多くなったなあ〜、と人口減少社会は、思っている以上に早く到来しそうな現場の悲痛からかもしれない。
話を統計学に戻そう。
パンは小麦粉から作られる、しかし、パンは小麦粉に戻る事は不可能である。
小麦粉は、パンだけでなく、スイーツや、普段の料理にも使用されるが、
小麦粉には、加工の仕方で、変質する。
統計学が、多くの人に触れていながら、理解の進まない理由は、
寧ろ、それぞれの分野でカスタマイズされ、実学的に統計を理解を進め、
各分野での解釈が、「タコツボ化」したのでは?
若しくは、肝要となる部分の理解を疎かになってはいないか?
と考えるのは、深慮すぎると言えるのか?
何故に、この乖離が生じたのか?最適な回答は何なのか?
自分なりの思索を重ねてみたい。
(因みに、この文章は統計の解説ではありません。枠内の議論に収めず、もっと幅広い議論を望むばかりです)
ある方が「20世紀は、大量生産と大量消費、そして、大量の殺戮(メガデス)の時代だった。」と総括されていた。
これに習って、21世紀はどうなのか?と問えば、
「内的な人間性」と「世界のコモディティ化」の対立が
顕著になると考えている。
「シミュレーショニズム」という言葉がある。
理系の技術者、研究者、開発者が用いる、所謂、予測などの「シミュレーション」
とは異なり、芸術分野でこの言葉が用いられている。
意味としては、例えば、「盗用」であったり、「サンプリング」だったりと、
あまり肯定的な解釈は出来ない。
こういった言葉が生まれてくる背景に、地域や文化、思想を超えた、人、物流、情報の大洪水と拡散も考えられる。
創作者にとって、一から作り上げたとしても、「◯◯っぽいよねっ!」と片づけられるのは、悲惨の一言である。
逆手に取って、すべての創作は、先人達の影響を色濃く影響しているんだと、居直り、ならば、それも、しゃーないとする考え。
まあ、どちらとも、極論と捉えられるだろうが。
実は、私が憂う本当の理由は、
「創作性の否定」なのかもしれない。
「創作性」と「統計学」がどう関連しているのか?
特許法第一条には「新規性」、第二十九条には「進歩性」を謳っている。
新規性は、公然知となっていない物を対象としていると規定がある。
一方の進歩性は、判断が難しく、特許(登録)性のない発明の大部分は、
進歩性がないものとされる。進歩性のある、なしの判断には、引用(発案)を用いて、論理付けを行うという手順となっているようである。
統計学は、記述統計学・時系列から、事象をどう判別するのか?や
データの群像をどの方向から眺めるか?
はたまた、数多くのデータの変数を削除するか?という観点になると言える。
先人の言葉に「体、斜めなれば、影、斜めなり」と。
今までは、世界の(経済)成長率の躍進とともに、
組織を含めた技術・流通、社会的ルールなどの
実体の成熟が促進されたのかもしれない。
それらが、理系の方々の需要をも、促進していた。
現在は、成長率の減少、人口減少社会、高齢化というオーナス経済を、
目の前にし、実体と対座する影にも注目が集まってきたのかもしれない。
一方で、昨今喧伝されている「ビックデータ」は
インターネット・スマートフォンなどの情報機器の普及を背景に、
言葉を聞く機会は多くなってきた。
毎朝、満員電車の中で拝聴しているα-moring Kyotoで、
佐藤御大が、外国人観光客が使用している
スマホからの検索結果からのデータを用いた解析結果をお話ししており、
「ビックデータ、凄いですね。」と感嘆されるのを聴きながら、
「先生、(まちがってはいないんですが)正確には、
ログデータからの解析結果なんです!」
と心の中で、しっくりこない感に苛まれた。
やはり、言葉は踊れど、
何か大事な何かを忘れていないだろうか?と憂慮を覚える。
この、情報大洪水時代と人口減少社会に、統計学の立ち位置は、
自分の中では、これだ!という結論は、まだ見えてない。
今までの大量消費型の生産・消費社会は、時に人類の生命・土地・資源を犠牲にした上で、成り立ってきた。これからの、少量・多品種、もしくは、(セミ)オーダー型の製品、サービスの提供を目指す際、やはり、内なる「人間性」(教養・主張・思考・思想など)と、加速度的に進む「コモディティ化」(均質化・過剰な拡張・画一化)を気をつけなくてはと思うばかり。