それでも、僕は「傘がない」

今日は、ある邦楽を題材に思索を廻らせてみたい。

 

井上陽水の「傘がない」は、

ラジオなどでお聴きになった方など多いかもしれない。

1972年という、自分が生まれる前の楽曲であるが、

異彩を放っている。

 


傘がない 井上陽水 - YouTube

 

大意としては、(君)という存在に会いたい!との

(明言されていないが、この歌の)「主人公」だが、

『傘がない』という事実、周辺の喧騒が

その感情に拍車をかけている。といったところだろうか。

歌詞を読んでいくと、新聞やテレビの

深刻なニュース報道は関係ねえーとぶった切り、

「行かなくちゃ、君に逢いに行かなくちゃ」と

衝動を切々と歌っている。

 

この曲、いくつか特質する内容が見受けられる。

一つは、「天候」が『主人公』の行動の制限条件となっている事である。

 

通常、古文を含めて、

古今東西の歌(もしくは詩)などは、

情景を描き出す要素となる。

さらに、この曲では、『主人公』の制限要素として登場する。

因みに、今のようなビニール傘が普及したのが80年代以降であり、

傘は持っていなければ、濡れるしかない。

これで、ある種の悲哀を描いているのかもしれない。

 

二つ目は、前述の大意で書かせてもらった、深刻に伝えるニュースと

そんな事が問題ではない!という『主人公』の対比が描かれている。

現在のヒット曲の歌詞を読んでみると、

いわゆる「僕」と「あなた」の関係性で終始している歌詞が数多い。

しかし、この曲は故意的にではあるかもしれないが、

新聞やテレビというキーワードを用いて、

(主人公の周辺ではない)世間を描いている。

しかし、『主人公』と「君」の関係性は、

主人公が君に恋焦がれているといった描写だけである。

 

昭和47年というのは、横井庄一さんが発見されたり、

ローマクラブが「成長の限界」を発表したり、

浅間山荘事件が起こり、日本中を震撼させ、

また、飛行機に関わる事件が多かったのが印象的である。

戦後から、高度経済成長を経ての、

この次の日本がどうなるのか?と

漠然たる不安が蔓延していたのかもしれない。

 

ヒット曲を見てみると、

ちあきなおみの「喝采」がレコード大賞を獲得し、

郷ひろみが「男の子女の子」がヒットし、

山本リンダが「どうにも止まらない」「狂わせたいの」で

イメージチェンジしていたあの頃である。

 

1972年 - Wikipedia

 

世の中は、新たな変化の局面と騒然とした世相を知りながらも

どこか楽観的な雰囲気に人々が享受していたのかな?と。

 

傘がないの場合、Aメロで世相のことを描き、

しかし今の自分の問題は、傘がないことが大変であり、

サビで「雨に濡れ、冷たい雨が心にしみる」と嘆き、

最後に君以外のことは考えられなくなることを、いい事だろうと訴える、

傾斜した世界が展開する。

 

この歌詞の4コマ漫画のような構造で考えると、

2コマ目の「傘がない!」と

3こま目の「雨が心にしみる」の嘆きが、

主人公の実態と心理状態であり、

一方の、1コマ目の騒然とした世相の描写と

最後の「いい事だろう」と訴えるのは、

他者に対する、心証もしくは訴えを描いている。

 

騒然とした世相とは関係なく、君に逢うことは、

何の罪でも、義務でも、皮肉でも、権利でもなく、

衝動として描かれている。

 

しかし、何故、君に逢わなくてはいけないのか?

また、こんな大変な時に行く理由が描かれてはいない。

 

この行間を聴いている人に埋めてもらうという、

なかなかリスナーに優しくない仕様となっている。

 

構造的にはこんな感じでしょうかね?

以上、終わり。

 

P.S 本当は、データマイニング企業をメタ分析するとか考えているんですが、

まだ、出来てません。出来たら、また、記事にします。