喜怒哀楽、その5、完結編

前回のおさらい

(以下略)

さて、能動的な感情は、

何処へ向かうのか?


キャビテーション

前述の記述モデルは、主体に関する考察が出来る。さて、相対する客体は存在するが、メカニズムが解明出来ない。

何か適切な表現はないか?
ここで、一つの話題を紹介
百均のヒット商品に、沸騰した鍋のお湯の吹きこぼれを防止する商品が、テレビで特集されていた。容器の中の水が、加熱される際に現れる小さな気泡は、それぞれ単体では割れにくく、お湯の中に留まってしまい、結果として、吹きこぼれる。商品の開発者は、土鍋に敷かれた昆布を観察し、そこに付着した気泡の挙動に気付いた。昆布についた小さな泡が結合し、大きな泡となって、割れやすくなるのを見つけたそうだ。
つまり、儚くも虚ろで、実体のない感情は、鍋の中の水の大気圧により圧縮されて凝縮した小さな気泡となり、浮上する。特に障害物などなければそのまま浮力で上昇し、水面で弾ける。

ただ、それだけなのかもしれない。

日本には、革命とか内戦などの、劇的な運動が語られることがあまりないが、少ない市民運動の中で、一揆を取り上げてみる。
一揆は、ご存知のように、農民を中心とした為政者への反乱であった。その当時大流行していた信仰が、法然の説いた選択集、所謂念仏である。
この思想の一番の特徴は、「あの世へ行けば、極楽という幸せが待っている」というものだ。この念仏を唱えながら、または、極楽に思いを馳せながら、農民達は命を落としていったそうだ。
日本の革命運動には、悲しいかな、新しい世界の青写真が存在しないまま、ただの無駄死に至る暴動が多い。

話を戻して、こういった、思想信条と前述の土鍋モデルは、親和性に富むと、推測される。

西洋では、行動として革命運動が歴史の中に刻まれている。
革命において、鍋の中の昆布の役割が「強い意志と決意と構想」であったとすれば、彼らは大切な命を犠牲にしてでも、成し遂げようと奮起し、成就させた。そして、国の歴史として、深く刻まれている。

日本語は、情感豊かな言語である。
その日本は、今、政治においても、社会においても、また、個人においても、大きな転換点を迎え、意志の表示が不可欠となる。
しかし、構造として、行動を伴う意志ではなく、唯の情念だけでは、将来の新しい世界を切り開く言葉とならないかもしれない。
注意して、この言語と向き合わなければ、ただの愚痴•不満•不安になることを、心しなくてはならない。
この事を、確認して、このシリーズを一旦終了させる。