統計と日本人

最近読み始めてる本に、「菊と刀」がある。

今まで統計を生かしたブログの記事を書いていたがその中で日本人の思考の癖や、矛盾するような動向に目が向く。

この本の中に、それがの答えが書いてあった。

ここでわたしなりに、

考えをまとめてみようと思う。

ここでは、ツッコミ兼、読者の代弁も兼ねて、対話形式で記述を試みようと思う。 

彼、曰く
「最近日本では、
ビックデータやデータサイエンスを
行った記事が目立つ。
その割に、統計が重用されてるとは思えない。
これはいかに?」

わたし、曰く、
「私も最近それを感じている。
さまざまな記事や考えを
見聞きするにあたって
私なりの持論を述べておきたい。

結論を言えば、日本人は、
無知あきらめ思い上がり
構成されていると考える。」
彼、曰く
「随分な物言いではないか!
無知は勉強不足と言えばそれまでだが、
あきらめと思い上がりとは何か!とは言え
ここで激高すれば、お前こそ思い上がりだと
罵られそうだ。ならば聞こう。
その意味とやらを!」

尋ねて、曰く
「まず無知とは、統計学のことか」

答えて、曰く
「違う。ここで言う無知とは、
正邪の判別の事と指す。
日本人は、悪という問題を認識する能力をやや欠いている。あるいは、そのような間題に取り組むことに対して消極的である。このような日本人の能力の欠如ないし消極性は、日本の開闢以来ずっと続いているように思われる。
それどころではない。日本人は、人生観に悪の間題を含めるのをー貫して拒絶してきた。』(「菊と刀」第9章より)

また日本では、
「応分の場」を重んじる考えが充満しており、
アメリカと異なり、自由な議論というのは
ほど遠い。上下関係による教授がなされ、
自重に自重を重ね、結果として、
思考停止に陥っている。

さらに、名に対する義理を重んじ、
保身のために苦心する。
事実の追求と真逆のことを行っている。」

右の口角を上げながら尋ねて、曰く
「ほうっ!ということは、
報道も嘘をついてるということか?」

答えて、曰く
「嘘かどうかはわからない。
ただ、メディアで行われる一大キャンペーンや
ネットの炎上といったものを、
魂という概念で見ることが可能である。
こんな記述がある。
日本人が信じているのは、人間には二つの魂があるということに他ならない。だがそれは、人間の中でせめぎ合う悪の衝動と善の衝動ではない。それは和魂(にきたま)と荒魂(あらたま)ある。それぞれの人間および各国家のー生には、態度を「和らげる」べきもあれば、「荒らげる」べきときもある。一方の魂が地獄に落ちて、もう一方の魂が天国に行く定めになっているわけではない。どちらも場が異なれば、必要で好ましいものになる。
「和らげる」べきときもあれば、「荒らげる」べきときもある。一方の魂が地獄に落ちて、もうー方の魂が天国に行ーという定めになっているわけではない。どちらも場が異なれば、必要で好ましいものとなる。(「菊と刀」第9章より)
彼、曰く
「つまり、日本においては、
ルールに基づく判断ではなく、
国民の言葉にならない感情や深層心理、
若しくは、同調圧力の類いを、
世論の正体と言いたい、とのことだろうか。
確かに感じる所もあるので、理解した、としよう。
(そうしないと、理解したと思われず、
恥を掻くのでなぁ‥。後でツッコミましょう)。」
 
続く