文脈としての統計学

 

昨今、考察をして苦悩をするを繰り返していた統計学に関する思索に、それなりに纏まってきたのでここに公示してみる。

 

先ず、この文章をまとめるに当たり、scanamindを使用して、キーワードの整理と骨組みが捗った事を皆様にお伝えします。感謝の意も込めてリンクを置いておきます。是非とも、お立ち寄り下さい。

 

スキャナマインド公式サイト

 

 

ここから、本題です。

 

  • 抑(そもそも)、[人間]は行動する動物であり、学問や物語は「人間の営み」によって産み出された財産である。
  • 人間が行動する時、ある「物語」や「概念」に基づいたり、(組織)の「前提条件」ならば、それらが行動の生み出す【要因】となる。
  • 一方で、「技術」や「統計」「分析」「データ」は、その要因の【裏付け】と考えられる。

「物語」や「概念」やある程度の「前提条件」は、普遍性を有し、人々は共鳴する。また、《考える》というエネルギーを解放させ、心理的な納得を決定づける。

一方の「技術」を活かすにしても、「統計」で「データ」を「分析」するには、私見であれ、客観視しているにしても、理論を動かす「内的エネルギー」を充満させなくてはならない。また、分析をしても、それを、社会的な説得力を有していないと、民衆の純朴な視点に倒される。

 

「心理的納得」と「社会的説明」という条件の違いをどう説明するのか。

人の脳は、右脳と左脳とで働きが違うという。

一般的には、右脳は「感情」を、左脳は「理屈」を司ると言われている。

 

 

人口増加期であった高度経済成長は、何か生み出せば簡単に結果を産み出せるという、行動の時代とも言える。「何故!」と考えるよりも、「ありがたや~」と感謝しながら生きられれば、それで事は足りたかもしれない。

 

しかし、現在はどうだろうか?

人口減少に伴い、GDPは減少し、「頑張っても、報われない」という感覚に苛まれるのも無理はない。「あー、そうですか。」と傍観を決め込む若者も多くなり、その空気感は肌寒いものだ。

 

そんな折、Googleの最高幹部が、アメリカの大学の卒業式で「今後10年間で最もセクシーな仕事は、統計学者である」と断言した。社会は、統計学の入門書がベストセラーとなり、また、人口減少で受験者が少なくなる中でも「データサイエンス」を基軸に、新学部が設立されたりと社会がキャッチアップに躍起になっている。

 

しかし、「統計」は、前述の「社会的説明を有さなくてはならない語りにくさ」だけでなく、様々な対立軸をくぐり抜けていかない宿命を背負わされている。

 

[人間]という視点で考えてみよう。

 

  1. 一つは、人々と共感し倫理的に生きながら、技術や知識を用いて「生産」をする存在である事。
  2. また、物語や概念、または、社会通念といった知識や説明を求められるという事。
  3. そして、知識やデータは単体では存在し得なく、一方の人間は、社会通念や物語、概念などで関わる機会を失う可能性があるという事。

 

一つ目の、「生産」をする存在であるという事は、観測対象としての対立として考えると、生産物を観測するのか?(生産をする)個人・団体そのものを観測するのか?と考えられる。また、『生産』という行動、と「社会通念」「概念」といったルールを超越した『文化』に抗う構図も見え隠れする。

 

  • 文化は、時に人の思考する「エネルギー」を解放して、その甘露を享受できる。
  • しかし裏を返せば、その人にとって「制約」となる。

 

二つ目の、知識や説明を求められるという事は、ある種のコミュニティー(集団・団体)における存在意義と関連する。企業におけるIR活動や知的財産権の精度は、彼らにとって高コストであり、生産性に影響あるはずだか、熱心である。一方、個人と公共には選択性を有しておらず、それぞれお互いが一種の対立はある。(自分が、行政と仲が悪いのはこの理由か!)

冗談はさておき、個人・公共それぞれがある集団・団体というコミュニティーとの間に関係性を有する際、明確なコスト及びエビデンス(証明書類)の開示が必須となってくる。前述の『文化』の中で営みを繰り広げる「個人」が、その『文化』と異なった集団のルールに従う必要がある。

 

何故、ルールに従うのか?組織にとって損失は悪であり、コスト高の根源となる。人に残業をさせてでも成果物を得たいと考え、その手の企業は、スローガンという思考停止ワードを提示する。所属している間は、それがテーゼとなる。

哀しいかな。考えるよりも、ルールを適用するのが時間的にコストが掛からないというのは、管理職になって良くわかった。

 

さて、生産を伴わなければ、個人が出来るのは観測であり、そこから始まる思考と分析。そんな中、

 

  • 統計学は、個人にとっては
  • (内的納得は得られるが)物質的な得るものもないが、
  • (試行錯誤の時間は失うが)精神的な失うものは存在しない。

 

三つ目の、関わる機会を失う可能性があるというのは、「公共」や「開示」や「エビデンス」や「データ」や「コンピュータ」や「技術」や「統計学」といった、これらのキーワードが、時に「味方」になり、ある時は「敵対」するという二面性である。

その中でも、前述の「技術」や「分析」そして「統計学」といった『知識』や「コンピュータ」や「データ」などの『デジタル化された記述』は、人の手が無くては意味をなさない。

その「人間」は、「個人として」「集団として」「公共の一員として」存在している。

公共の一員として(否定)を唱えたいが、集団の一員として(肯定)を甘受しなければならない時、個人としての「自分という人間」は、「あー、そうですか。」となるのは、非常に危険である。

裏を返せば、強烈な成功体験を語られれば、冷淡な態度は消え、歯止めのかからない衝動へ突き動かされる。

 

人間は、「物語」に突き動かされる。

  • 「組織にとっては、存在意義をかき消され」
  • 「個人にとっては、公共と抗う事が出来ない」
  • 「公共にとっては、個人の動向に注意を払っている」

 

しかし、「物語」は、「統計学」となかなか仲良く出来ずにいた。

なぜなら、何処まで言っても、屁理屈になりかねない、理論の積み重ねであったから。

「人間」は『知識』や『デジタル化された記述』を手にし始めて、何かの「物語」を語れるのでは?と期待している。

 

Amazonは、ユーザーの行動履歴を元に、レコメンドを提示するシステムを構築し、書評家や批評家を駆逐をした。

ビッグデータやデータサイエンスという言葉が飛び交った昨今のこの世界は、

今年どんな言葉や「物語」、「概念」が飛び交っていくのだろうか?

 

統計の勉強でやるべきではない事、其の三

3.思い付きだけを発表するのを躊躇うな!

前段に引き続き、枕草子の中から、

[現代語訳] 
芸能を習得しようとする人は、『上手くできないうちは、できるだけ人に知られないようにして、こっそり練習して上手くできるようになってから、人前に出ることが恥ずかしくない』といつも言うものだが、このように言う人は、一芸といえども習得することはできない。 
まだ一向に技芸も知らないうちから、上手な先達の中に交じって、怒られようが笑われようが恥じる事もなく、平気で過ごして修練に励める者だけが芸を習得する。天性の才能・素質なんかなくても、芸能において停滞せず、自分勝手なやり方をせずに、修練の年月を過ごせば、器用で天性の才能に恵まれている人よりも、遂に技芸が上手な域に達して、人徳も高まり人から認められるようになり、並びなき名声を得ることにもなる。 

色々思うところはあったのだが、
やはり先人の言葉は説得力がある。
正にその通りと言わざる得ない。

時々、頭のネジがぶっ飛んだような事を書いて、ちょっとだけ後悔する事も確かにある。しかし、何も言わずに「腹が膨れる」ような事を続けていくよりは、そうする事で、自分の中のモヤモヤが低減出来るのを、最近感じている。書きながら、あーそうかと、勝手な納得をして、じゃぁー、書くの辞めたっ!と言うこともたまには有るが、書き終えて公表して、その反応から、やっぱりそうなのかーと実感するのが、割と大事だなぁと考えております。

まぁ、そんな感じよっ。

統計の勉強でやるべきではない事、其の2

2.プログラムの勉強が、統計の勉強と思うな!

昨今は、フリーソフトでありながら、充分なアウトプットが可能な解析ソフトが流通している。便利な時代であり、解析にコンピューターは欠かせなくなったのも時代の流れかもしれない。

自分自身は、Rを使って、何とかグラフまでは描けるのだが、本格的な分析となっているのかは、甚だ疑問である。ましてや、pythonなんて・・・。結局のところ、これ又、無料のOpenOfficeて分析しているのが、関の山である。
ビシネスの環境に慣れた人間にとっては、汎用性の高さが魅力的な表計算ソフトが、使用頻度の多数を占めてしまった。
単なる慣れの問題や扱うデータ量がツールの差異は生ずるのは致し方ないだろう。しかし、プログラムスキルが統計学の理解と繋がるかと言えば、それは如何だろうか?

ベストセラーにして、新たな統計の入門書「統計学は最強の学問である」の中にも、巨額のシステム導入で如何にか成るだろう!と考えている経営者陣に対して、先ずは、小さなサンプルから始めて検討すべきと、語っていた。発注する側、受託する側双方の関係者にとっては、手厳しい警鐘で有ろう。


統計処理ソフトRに関する情報を提供している、R-bloggerというサイトがあるが、そこにRの使用スキルがある人向けの求人サイトR-userが開設された。求人を眺めていると、主に、大学の研究室がメインと言うのがよく分かる。一方で企業としての採用は、確認する事は出来なかった。

この事実だけで、Rは使えないと断言するのは、早合点過ぎる。
寧ろ、日本の企業が先進的な技術を貪欲に学ぼうとしていると考えるのが、精神衛生上、良いかもしれない。

詰まる所、目的感の問題ではあろう。
プログラムが分からない事を嘆くよりも、良書に触れて思考の飛躍に時間を割くのが得策だと、今は、自分を諌めている。
[将来も、やらないとは言っていない。]

兼好法師徒然草の中に、
こんな一文がある。

[現代語訳] 
ある人が弓を射る技術を習い、二本の矢を手に挟んで的に向かっていく。これを見た弓の師匠が言った。『初心者は、二本の矢を持ってはならない。後の矢を頼りにして、始めの矢を適当にする心が生まれる。何回も的に当たるか当たらないかを考えるのではなく、いつもこの一矢で決めると思え』と。わずかに二本の矢、師匠の前で無駄にしようなどと思うものか。緩んだ緊張感のない心は、自分では気がつかなくても、師はそれを知っている。この戒めは、万事に及ぶものだ。 

我らも、心してかからねば。

統計の勉強でやるべきではない事、其の一

最近、富士ゼロックス総合教育研究所 著の「組織のなやみ研究所」を読む機会があった。私自身が、様々な仕事の現場の中で思い当たる節があったので、共感しながら、読まして頂いた。
(現在、iBooksで無料ダウンロード中)
その中で、「やめるべき事を止めない」のが、戦略実行の足かせになると言及されていた。
そこで、自分が統計の勉強をする中で、これは「やるべきではない事」を述べて、今後、学ぼうという初学者や異なる分野の研究をされる方々の参考になればとの思いで描かせて頂く。

1.不適切な「教科書」は、使用するな!

統計学は、実学的な利便性が評価される事も多く、様々な分野の先生方が苦闘されながら執筆されている事は、重々承知している。また、ネットでは有難い事に参考となる資料も潤沢に供給されている。

しかし、社会に出てから勉強する側からすると、選択肢の多さに辟易する事だろう。大学という学びの場にいる方は、教授の推薦する教科書が非常に優れていたと、後で気がつく。問題は、社会の中で統計を勉強しようと奮闘すると、この問題が生じる。

統計検定2級を受験した体験記を見た時に、用語の説明や教え方がそれぞれの教科書、参考書でバラバラであったと記述されていた。頼みのAmazon先生は、こういった細かいご要望には応えてくれない。

ここで、一つ提案なのだが、
統計の教科書の品評会を、
何処かの書店で
やってもらえないものだろうか?

業界の各分野のおける、最適な教科書が見出されれば、要らない苦労は掛けずに済むのではなかろうか。

私なりの仮説

異なる領域の分析手法を学習に励んでいる。しかし、そこから生じた結果の吟味が、自己の経験則による評価は通用しない。当たり前だろっと簡単だが、それでも学びたい」という向上心とは裏腹に、正邪の判断に苦心する。

これらの苦心を放置することは、初学者、若しくは、新たな分野への学習に支障をきたすであろう。今後の技術文芸の発展を妨げないかと懸念するのは、余計なお世話だろうか?

最近、学習を一段落させ、救いを求めるかの様に、寺田寅彦先生の著作に触れる。
先生の、統計に対する沢山ある考察を拝見して、考えを巡らせる中で、今回、私の中の一つの思いつきを披露してみる事とする。

⭕️そもそも、統計とは

分析の対象となる(幾何)空間がまず存在し、その空間のある一定の時間が存在し、その上に、種々の分析によって結果が生ずる。

昨今、広い領域(職域)にて、
統計は多くの試行錯誤による検証と
根気強い精錬を経て形成されていく。
議論の対象となるのは、
その分析手法であろう。

分析手法の個々別の特徴を、
議論の対象とするのは、
そもそも空間と時間と手法の中で
観察者が介在出来るのが、
それだからと、見る事も出来る。

一方で、
観察対象となる空間と時間は、
直接的な比較の議論では、
個別のご事情が云々と
議論の議論を招く。

さて、一つ目の時間は
目の前の時計と同等と定義する。
それは、単に時間の長短となり、
委細の議論の対象とするのは、
今回は省略。

もう一つの空間は、
単純な距離、面積、体積が
対象となるだけでなく、
virtualな仮想領域も想起されたり、
あるグループの身体能力や
IQ、EQ、SPI等々、
若しくは、
研究室のシャーレの中など、
見た目も個性も
千差万別と言ったところだろうか。

これらの観察対象の空間量を、
関数Xとして定義し、
新たな知見が見いだせるのか?
考察をしてみたい。

⭕️空間量(仮)

前述した、観察者の想起する
(幾何)空間は千差万別であり、
単純な単位量を定義出来ない。
統計による分析となるならば、
相関の可能性がある
組み合わせの総和と定義するのが
想定しやすい。

この数字の大小が、即、
何某かの優劣に
結びつくとは考えにくい。
寧ろ、尺度としての数字と言える。

どんな尺度かと想いを巡らせると、
研磨の際使用する、
紙やすりに付されている番号が
イメージしやすい。

一般に、
番号の若いヤスリは目も荒く、
大きく研磨する事が出来る。
番号が大きくなれば、
表面の粗さを是正し、
時間を掛ければ、
鏡面のような仕上がりとなる。

さて、前述の関数Xは
観察対象の空間から生じ、
(幾何)空間で用いられる分析手法は、
関数Xと連動すると考える。

⭕️空間量の効用

数を用いる事により、
順列を有することとなる。
分析手法という手続きに
何がしかの優劣は存在し得ない。

しかし、
初学者を含めた第三者に対し、
多様な手法の選択の妥当性の判断を
提供出来ないだろうか?
その逆に、一つの手法に類する
他の手法への転用可能性の有無の
判断材料となり、
多様性の獲得が可能ではないか。

⭕️まとめ

これからのオープンデータ時代の
統計との付き合い方を考えると、
所謂、ギルド制度の様な
分野細分型の学習方法では
間に合わないと考えている。
初学者、若しくは、
他の分野の手法を学ぼうと
腐心されている方々の
参加を促進しなければと危惧している。

私の提案には説明不足な点、
若しくは、倫理的、論理的な破綻も
散見されるかもしれません。
その際は、
コメントなどで補足出来ればと
考えております。

駄文な長文にお付き合い頂き、
ありがとう御座いました。

私の考えている正解が、貴方にとっての正解とは限らない

ゲームにおける二次元と三次元

日本と米国では、好まれるTVゲームの種類が大きく異なる。

まずは、簡単に説明を。

日本では、スーパーマリオブラザーズグラディウスなどの2D(強制)スクロール型が好まれる。
確かに、ハードが進化し、表現力の向上で、ガンスリ戦場の絆のような3Dによる表現で話題になっているゲームもあるが、やはり、以前からの2Dフォーマットに則ったゲームに人気はある。

特に、シューティングゲームにおいては、TPS(サードパーソン•シューティング•ゲーム)として名が知られる様になる。

一方、アメリカで人気のあるゲームを思い浮かべると、CoDシリーズやマインクラフトが挙げられる。
主人公視点で、移動や攻撃などの行動に対して、選択の自由度が高い。また、背景などの細部のディテールに相当こだわっているのも、特徴である。
ハードの表現力が向上し、フルで生かしているのは、アメリカかもしれない。

このようなゲームを、前述のTPSと比較する意味で、OPS(ワンパーソン•シューティング•ゲーム)と呼ばれる。

互いの国で好まれる、それぞれのゲームフォーマットから、考えを巡らせてみよう。

TPSとOPS

TPSは、次のように定義出来そうだ。

  1. 主人公(機)が、操作するプレイヤーに可視化されている。
  2. 行動範囲は、画面の枠内を移動することが約束されている。また、ゲームの舞台は半強制的にスクロールをする。例えば、前方へ進むと後方へは戻る事を辞めなくてはならない。
  3. 障害物や敵機も、画面内においては、可視化されている。主人公機が回避もしくは攻撃を行う事が可能である。
  4. 画面枠外は、主人公機•敵機あるいは障害物は、如何なる干渉をする事は不可能である。

一方、OPSは、TPSの対比としての役割を与えるために、次のような定義を考えてみる。

  1. 操作するプレイヤーは、主人公を観察することは出来ない。代わりに、主人公視点での周りの状況は観察出来る。ステータスや武器•防具などの使用できるリソースが表示され、それらへのアクセスに工夫がなされている。
  2. OPSRPGの様に、プレイヤーの意思によって、針路が決定する。気が変わって、反対方向に進む事も許されている。その代わり、スクロールの様な舞台が変わる要素が無いため、目的地まで自分でコントロールして行かなければならない。
  3. 敵機は、NPCなどの決められた動きをするキャラクターよりも、ネットワーク上の誰かが好まれる。他のプレイヤーの行動は、想定不能であり、攻撃をされたり、または、その攻撃を回避し、ゲームで決められたミッションをクリアして行く。
  4. 前述3の舞台は、ネットワーク上のプレイヤーが共有をし、プレイヤーAの行動が、共有しているメンバーに影響を与えることも可能である。この時、プレイヤーBは、プレイヤーAを画面内で認識していなくてもプレイヤーAの行動の便益を受けられる。それらの便益を受けられるかどうかは、便益の受けられる範囲によって決定する事が多い。
日本人が好むTPS、アメリカ人が好むOPS比較してみてみると、それぞれのゲームフォーマットで要求されるスキルにも、大きな違いや特徴が見えてくる。

TPSは、危険を『回避』するのが、課題と考えられる。
  • 敵機は、画面枠外から湧き出し、主人公機に対して、攻撃や突進、法則性のある動きをする。
  • プレイヤーはそれらを察知し、攻撃を回避しながら攻撃を重ねていく。
  • ステージは、時間とともにスクロールや、不可逆的な進行で、BOSS戦や報酬を求めてなどの目的に向かっていく。
  • 強力な武器を手にしても、その時に攻撃が効果的なキャラクターが居るとは限らない。
主人公の操作できる行動は、例えば、移動以外に出来るのが、ジャンプとしゃがむだけとか、シューティングゲームだと真っ直ぐにしか進まない銃弾で、パワーアップすると画面を真っ直ぐに貫通するレーザーだが、絶対に、枠外には絶対に行かない、など(笑)

一方のOPSは、危険に対して『予知』をする事が求められる。

  • 非常に現実味のある風景が眼前に広がり、その中から、危険な因子を早い段階で認知し、次の行動経路を自ら立てて行う。
  • ゲームに協力する者が居れば、チャットなどのコミュニケーションによって、目的遂行の為の情報を獲得し、リソースの充実や先回りなど、行動の自由が担保されている。
  • 主人公のポテンシャルは、疲労度やスタミナなどのバイタルの作用を反映させている。
OPSには、画面のフレーム外という概念が無く、自由度の高さをユーザーに提供する。その代わり、それを享受するためには、他のプレイヤーの予測が困難な行動による不利益(ダメージを食らう、経路変更などの移動コストの変化など)を覚悟しなくてはいけない。

こうして2つを比較すると、何を持って快適や興奮する要素が見えてきそうだ。

TPSにおいて、画面枠内を縦横無尽に動き、目的を果たすことに、プレイヤーはある種のカタルシスを感じる。

主人公の持つ攻撃手段や期待出来るリソースは制限されている。また、画面枠外への干渉は、いかなる強力な武器を持ってしても、不可能である。これらの制約条件は、敵の攻撃、もしくは、移動のパターンにも適用される。敵の攻撃パターンも、面を進む毎に、難易度が上げながら、その間に強くなった主人公機の、強さを発揮した時に、喜びが生まれるのかもしれない。
これらをワンパターンだと感じるのも、理に適っている。確かに、昔のゲーム機のspecを考えれば、このワンパターンは致し方ないが、今のゲーム機は格段に性能も操作性も洗練されているにも拘らず、TPSのゲームは、需要が高い。

反対に、OPSには、主人公の行動は、プレイヤーに一任されている。ゲーム内の仮想空間を、彷徨い続けても構わないし、ミッションクリアに精を出すのも、自由である。
攻撃手段は、ステージを進む毎に、アイテムという形で選択肢が増えていく。攻撃の範囲も、アイテムに準じたものとなり、画面枠外に対しても有効となる。敵の行動パターンは、AIによるパターンもあるが、オンラインプレイになれば、他のプレイヤーが操作を担う。行動パターンも、互いの利害や思考に依る所が大きい。

名著『菊と刀』には、日本人を観察して得られた、彼らの特性が克明に記述されている。そのなかに、
【応分の場】という概念が存在する。日本人はそれぞれの身分に対して、それぞれの役割分担を提供する事に社会は腐心してきた、と著者は言う。つまり、身分の異なる隣人の役割に干渉することは、有る意味、御法度とされている。

翻って、TPSにおける、華麗なる危険回避と、無駄な動きのない攻撃で得られる快感は、次のように解釈してみる。
  • まず、画面の枠内という応分の場において、自機に対して最小コストの行動を選択し、全敵死滅という最大リターンを得ることが、その瞬間の最大ミッションとなる。
  • それらが、間断無く、飽きることなく続けていくのが、面白いゲームと評価され、最終目的地まで辿り着くのは、当然と考えている。
  • 果たして、それらの世界が、ユーザーに提供されるゴールが、望むべくのものなのかの判断をユーザーに委ねることは無い。
OPSには、危険の回避行動とともに、危険を予知する事が大事となってくる。
  • 画面枠外の干渉という不自由を解消し、ゲームの目的をユーザー自身が選択する。
  • 攻撃•移動などの諸々の手段においても、ユーザー自身に委ねられる。
  • 選択の自由が重要なファクターとなっている。
欧米人は、日本人の応分の場に対する、自由というものへの重要性を行動規範としていると、前述の著書にも記載があった。

ここまで、ゲームという切り口で、日本人とアメリカ人の視点の違いを考察してみた。ここまで、長文の考察にお付き合い頂き、ありがとうございます。

この考えを拡げて考えると、実は、社会における統計学(サンプリング)と情報科学ビッグデータ)の比較に通ずるのでは?と、仮説を立てて考えております。

其れは、またの機会に。

統計と日本人

最近読み始めてる本に、「菊と刀」がある。

今まで統計を生かしたブログの記事を書いていたがその中で日本人の思考の癖や、矛盾するような動向に目が向く。

この本の中に、それがの答えが書いてあった。

ここでわたしなりに、

考えをまとめてみようと思う。

ここでは、ツッコミ兼、読者の代弁も兼ねて、対話形式で記述を試みようと思う。 

彼、曰く
「最近日本では、
ビックデータやデータサイエンスを
行った記事が目立つ。
その割に、統計が重用されてるとは思えない。
これはいかに?」

わたし、曰く、
「私も最近それを感じている。
さまざまな記事や考えを
見聞きするにあたって
私なりの持論を述べておきたい。

結論を言えば、日本人は、
無知あきらめ思い上がり
構成されていると考える。」
彼、曰く
「随分な物言いではないか!
無知は勉強不足と言えばそれまでだが、
あきらめと思い上がりとは何か!とは言え
ここで激高すれば、お前こそ思い上がりだと
罵られそうだ。ならば聞こう。
その意味とやらを!」

尋ねて、曰く
「まず無知とは、統計学のことか」

答えて、曰く
「違う。ここで言う無知とは、
正邪の判別の事と指す。
日本人は、悪という問題を認識する能力をやや欠いている。あるいは、そのような間題に取り組むことに対して消極的である。このような日本人の能力の欠如ないし消極性は、日本の開闢以来ずっと続いているように思われる。
それどころではない。日本人は、人生観に悪の間題を含めるのをー貫して拒絶してきた。』(「菊と刀」第9章より)

また日本では、
「応分の場」を重んじる考えが充満しており、
アメリカと異なり、自由な議論というのは
ほど遠い。上下関係による教授がなされ、
自重に自重を重ね、結果として、
思考停止に陥っている。

さらに、名に対する義理を重んじ、
保身のために苦心する。
事実の追求と真逆のことを行っている。」

右の口角を上げながら尋ねて、曰く
「ほうっ!ということは、
報道も嘘をついてるということか?」

答えて、曰く
「嘘かどうかはわからない。
ただ、メディアで行われる一大キャンペーンや
ネットの炎上といったものを、
魂という概念で見ることが可能である。
こんな記述がある。
日本人が信じているのは、人間には二つの魂があるということに他ならない。だがそれは、人間の中でせめぎ合う悪の衝動と善の衝動ではない。それは和魂(にきたま)と荒魂(あらたま)ある。それぞれの人間および各国家のー生には、態度を「和らげる」べきもあれば、「荒らげる」べきときもある。一方の魂が地獄に落ちて、もう一方の魂が天国に行く定めになっているわけではない。どちらも場が異なれば、必要で好ましいものになる。
「和らげる」べきときもあれば、「荒らげる」べきときもある。一方の魂が地獄に落ちて、もうー方の魂が天国に行ーという定めになっているわけではない。どちらも場が異なれば、必要で好ましいものとなる。(「菊と刀」第9章より)
彼、曰く
「つまり、日本においては、
ルールに基づく判断ではなく、
国民の言葉にならない感情や深層心理、
若しくは、同調圧力の類いを、
世論の正体と言いたい、とのことだろうか。
確かに感じる所もあるので、理解した、としよう。
(そうしないと、理解したと思われず、
恥を掻くのでなぁ‥。後でツッコミましょう)。」
 
続く